全脳自由帳

より考えるために書く

選択的夫婦別姓制度について(2)

サイボウズ社長の青野慶久さんが、選択的夫婦別姓制度に向けての訴訟をすると表明されている。

note.mu

この記事によると、

ここで、「民法上の氏」と「戸籍法上の氏」の2つの氏があることに注目します。通常は一致していますが、一致しないこともあります。例えば、「鈴木」さんが結婚して、民法上も戸籍法上も「佐藤」さんに改姓したけれど、その後、離婚して「民法上の氏」は「鈴木」に戻る。しかし、「戸籍法上の氏」、すなわち「呼称上の氏」は「佐藤」を使い続けている状態です。これは法律上、既に認められています。

今回の訴訟のゴールは、その2つの氏の不一致を、離婚時に加えて結婚時にも適用し、「戸籍法上の氏(=呼称上の氏)」として旧姓を使い続けられるようにしよう、というものです。

そうだったのか。「民法上の氏」「戸籍法上の氏」の2つがあるとは知らなかった。結婚して姓を変えたあと離婚しても旧姓に戻さない人(多くは女性)がいるのは戸籍上どういうしくみなのだろうとかねがね思っていたのだが、「民法上の氏」のみ戻しているということなのか。長年の疑問が解けた。

それなら確かに、結婚時にも「民法上の氏」のみ変更して「戸籍法上の氏」は変えないようにできるようにする、という変更(訴訟での提案)は合理的なように思える。

というわけで、ますます選択的夫婦別姓制度に賛成する気持ちになってきた。

上記の「ゴール」については、以下の記事で詳しく解説されている。これらを読んで、今回の提案がよく理解できた。

ameblo.jp

ameblo.jp

www.huffingtonpost.jp

「民法上の氏」と「戸籍法上の氏(呼称上の氏)」については以下の記事で詳説されている。

choutei.net

選択的夫婦別姓制度について(1)

ここ何年か、選択的夫婦別姓制度についての議論が高まってきている。

www.moj.go.jp

私は賛成である。なぜなら、特に反対する理由がないし、別姓にしたい人にとってはいいことだろうから。

私自身は、結婚する時に妻にこちらの姓に変えてもらった。結婚を決めたあと「名字どうする?」と切り出す時には結構緊張した。私は変えたくなかったが、夫の方に合わせなければならないという正当な理由などない。妻に「変えたくない」と言われたらどうしようと思ったものだった。

そのあと子供たちも含めて長年同じ姓でやってきたから、今さら別姓にする(妻が旧姓に戻す)のはいやだし、「これから結婚する人は全員別姓」という制度にするというなら反対だが、同姓か別姓かを選択できるのなら何ら反対する理由がない。

私が独身だったとしても賛成したと思う。選択的夫婦別姓制度になって、これから結婚するとして、妻になる人に「名字を変えたくない」と言われたら、子供のことなど含めて、よく話して決める。それだけのことである。

反対する人の中には、夫婦同姓という「日本の文化」を守ろう、という人もいる。それがどれほど「日本の文化」なのかはともかく、社会の状況からしてそろそろ手放す時期ではなかろうか。着物から洋服に変えたように。

この問題に関していろんな記事を読んだが、「選択的夫婦別姓、是か非か」については、私の意見は上に書いた以上でも以下でもなく、特に真新しい主張はない。

公明正大でいこう

ちきりんさんのブログには印象的なエントリがたくさんある。これは7年前のもの。

d.hatena.ne.jp

飲み会の支払いの際、たまたまAさんに持ち合わせがなく、同僚のBさんから千円借りました。
すぐ返すつもりが、多忙な日が続き、顔を会わせないまま1ヶ月が過ぎました。
期限も決めていないし催促もされなかったので、「忘れてるかな。今頃言い出すのもどうかな。たいした額じゃないし」と思っているうちに、そのままになってしまいました。
このことで、Aさんが得たのは「千円」、反対にAさんが失ったのが「信用」です。

得るモノ、失うモノ - Chikirinの日記

このエントリの内容にはまったくもって同意。「信用」を得ること、「社会への貯金」をすることはお金を貯めるよりもずっと大事である。

ただ、この例でAさんが失ったものは「信用」だけではない気がする。他にも失ったものがある。名前をつけるなら「尊厳」とでも言うべきもの。

借りた金を返さないというのは人としての道義にもとること。そういうことをするたびに、人としての「尊厳」が失われていくように思う。これはBさんとの関係においてではなく、あくまでAさん個人の中でである。人としてのパワーが落ちていくイメージ。昔の人が「お天道様が見ている」と言ったのは実はこういうことではないか。

誰も見ていなくても、自分の尊厳を保っていよう。いつも公明正大でいこう。

イナイ×イナイ(森博嗣)

イナイ×イナイ PEEKABOO (講談社文庫)

イナイ×イナイ PEEKABOO (講談社文庫)

 

Gシリーズの文庫化された作品はすべて読んだので、Xシリーズを読み始めた。これが第1作。2007年の作品。英題の”Peekaboo”は「いないいないばあ」のこと。

黒髪の佳人、佐竹千鶴は椙田探偵事務所を訪れて、こう切り出した。「私の兄を捜していただきたいのです」。双子の妹、千春とともに都心の広大な旧家に暮らすが、兄の鎮夫は母屋の地下牢に幽閉されているのだという。椙田の助手、小川と真鍋が調査に向かうが、謎は深まるばかり――。Xシリーズ、文庫化始動!

Xシリーズについて作者は以下のように書いている。

これまでのシリーズとはまた少し違って、少々レトロなものを書きたいと思います。ノスタルジィでしょうか。もちろん、新しさあってのレトロですが。Gシリーズの途中に、このシリーズをスタートさせるのも、当初から計画していたことです。

Xシリーズ - 浮遊工作室 (ミステリィ制作部)

旧家が舞台なので、レトロといえばレトロだった。しかし多分、レトロという言葉にはそれ以上の意味が込められているのだろう。なんとなく話の展開がゆっくりだということは言える。

謎の解決はされるのだが、スパッとはいかない。謎解きありのミステリーを読んでいるというより、普通の小説を読んでいる感じに近い。そういうシリーズになるような予感がする。Gシリーズ(まだ全巻読んでいないが)のように、シリーズを通してのしかけが用意してありそう。そこにも注目しながら読むことにしよう。

「へえ……」鷹知は笑った。「案外、古風なんですね、小川さん」
「見た感じよりも、年上なんですよ」真鍋が言った。
「何ですって?」小川は振り返って、彼を睨んだ。「何て言った? よく聞こえなかったけど」
「いえ……、あれ、おかしいな、褒めたつもりだったんですけど」真鍋は目を丸くする。
「褒めてない。全然褒めてない」

わかるわかる。同じことを言うにも、言い方によって受け取られ方は全く違う。この小川令子と真鍋瞬市のコンビにも期待。二人がくっつくことはないと思うが。真鍋はどうということのない奴かと思っていたらそうではなかった。

本は貸し借りしないという、守れない誓い

もう何十年も前から、「他人と本を貸し借りしないようにしよう」と思っている。思っているが守れない。

人に本を貸すと、戻ってこないことがとにかく多い。貸してしばらくして「あの本、どうですか?」「あ、まだ読んでなくて…」これはだいたい長引く。すぐ読み始めてくれても途中で止まったらヤバイ。そのまま時が経っていく。このパターン、何度も経験している。

どこかの時点で「そろそろ返してくれませんか」と言うか、あきらめてしまうことになる。前者は気まずいし、後者もいやなものである。

自分が借りる側の時も、なんとなく読み進めることができずに長い間借りたままになってしまうことがある。人のことは責められない。

これが音楽CDなら、1回聴くのにそれほど時間はかからないし、たとえ聴いていなくてもリッピングしてすぐ返してくれることが多い(LPをカセットテープに録音していた時代はそれなりに手間だった)が、本は裁断してスキャンするというわけにもいかない。

思うに、本というのは人に借りたという事実によっていくぶん読む気が減じてしまうものなのである。自分で買った本(図書館で借りた本も?)に比べて、スタート時点で不利になっている。少なくとも私にとってはそうで、他人に借りた本は「早く返さないと」「読んで感想を言わないと」というプレッシャーがあるし、前の記事に書いたように、ていねいに扱わないといけない。そういう要素が、読もうという気を少し削いでしまう。

人に本を勧める時には、貸すことはせずに、自分で入手してくれることを期待するか、いっそあげてしまうか、どちらかにしたい。そして逆に「貸しましょうか?」と言われたら「いえいえ買います」もしくは「読もうと思ったら買います」と言うようにしたい。

…と思っているのだが、守れない。特に、いいと思った本を貸すという行為は時々やってしまう。

いやいや、本というのは無理やり読んでもらうものではないし、自分が読んでおもしろかったからといって他人も喜んで読んでくれると期待しない方がいいのだ。改めて「他人と本を貸し借りしない」ことをここに誓う!

途中の家(エラリー・クイーン)

途中の家 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-19)

途中の家 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-19)

 

1936年の作品。国名シリーズ最後の「スペイン岬の秘密」と、先日書いた「日本庭園の秘密」の間に発表されている。

あばら家から女の悲鳴が聞え、一台の車が飛び出していった。義弟のジョゼフに会うためやって来た青年弁護士ビル・エンジェルが、その家の中で見たものは、胸を刺され虫の息となっている義弟の無残な姿だった。しかも、ビルの友人エラリイ・クイーンの手腕により、意外にも被害者が、ニューヨークとフィラデルフィアにそれぞれ妻を持つ重婚者であったことが暴露される。容疑はフィラデルフィアに住む妻にかかったが、果して被害者はどちらの人間として殺されたのか? 自選ベスト3に選ばれた面目躍如たる迫力篇。

「読者への挑戦」が入っている。例によって、犯人の見当は皆目つかず。解決編はこれぞクイーンという感じのロジカルな謎解き。殺人現場の環境がちょっと人工的な気がしたが、ありえないというほどではない。謎解きの根拠として、今の時代の日本人には感覚としてなかなかわからない部分もあったが、まあしょうがない。どうせ解けるわけでもなし。後からふりかえると伏線の張り方がちょっとあからさまなように見えるのも、こちらの考えすぎというか負け惜しみだろう。伏線だということを見破れなかったわけだし。

国名シリーズと比べて、ドラマの要素が少し入ってきていると言われているこの作品。確かに人間模様を描こうという意志は感じるが、古い文体とエラリイの淡々としたキャラクターのせいか、あまりウェットなものは感じなかった。

翻訳文は読みにくい。全体的にもう少し自然な日本語にしてほしかった。おかげでだいぶ読むのに時間がかかった。「訳者あとがき」で、1ヶ所非常に翻訳に苦労したということが書いてあったが、そこに関しては英語と日本語の大きな違いなのでしょうがないと思う。

女性に対して「心配ありませんよ。(中略)このぼくは中性なんですからね」というエラリイのセリフがある。女性には(男にも)興味ないのか?

山本彩 LIVE TOUR 2017 〜Identity〜に行ってきた

11月21日、大阪オリックス劇場でのさや姉のライブに行ってきた。

2枚目のアルバム「identity」がよい、という話はすでに書いたが、それからさらに気に入って、毎日のように聴いている。その勢いでチケットサイトでチケットを入手したのである。

3階席だったのでかなり遠かった、というか高いところからだったが、堪能できた。ライブでもちゃんと通る声で、うまいので安心して聴けた。バックにはSuperflyのバックも務めていた草刈浩司氏(ギター)が入っていた。

「identity」の中では、自作の「陸の魚」とドリカムのカバー「何度でも」が特に気に入っている。「何度でも」はオリジナルよりいいと思う。この2曲は特に感情移入して聴けた。以下のインタビューによると、「陸の魚」はアイドルとソロを両方やることの苦悩を書いたものらしい。

natalie.mu

陸の魚

陸の魚

  • 山本彩
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

しっかりしたミュージシャン。今後が楽しみである。

コンサートの内容とは違うが、驚いたのはアンコール前。「最後の曲」が終わってさや姉とバンドが退場したあと、普通はその拍手のままアンコールの拍手に移ると思うのだが、拍手が止んでしまい、しばらくシーンとしていた。

まあすぐ誰か始めるだろうと思っていたら静かなまま(まあ私も拍手していないわけだが)。「このまま続けばアンコールなしか? まさかな? 」などど思っていたら、ようやく「さやか、さやか」というコールを始めた人がいて、一部の人が呼応して拍手をしだした。

私も手をたたきだした。3階席でそうしているのは全体の3〜4割という感じ。満場アンコールというにはほど遠い。その状態でバンドが出てきた。そこでやっと満場アンコール。

無事3曲やってくれたが、聴く側の「アンコール慣れ」を示す出来事だったのではないかと思う。みんなもっと聴きたかったことは間違いないが、同時にアンコールがあることに慣れきっているから、誰もあえて自分がやりだそうとはしなかった、といったところではなかろうか。こういう光景、他のミュージシャンでも起こっているのだろう。

追記

sirabee.com

翌日の最終日では泣いてたのか。そっちに行った方が…いや、ぜいたくは言うまい。

日本三大指かみソング

BS12の「ザ・カセットテープ・ミュージック」を観始めた。1980年代の歌謡曲をかけながらのトーク番組。スージー鈴木・マキタスポーツ両氏の解説とトークが軽妙で、かつ勉強になる。私の世代(私はスージー鈴木氏の3学年上になるらしい)には、この時代の音楽はこたえられない。

11/19夜の放送は松田聖子編だった。「松田聖子という場で、一流の作り手が好き放題やっていた」という見方が印象的。確かに、とにかくすごい人たち(松任谷由実、大瀧詠一、松本隆、細野晴臣、財津和夫、佐野元春、尾崎亜美、…)が曲作りに関わっていた。今思い出しても「聖子祭り」だったと思える。

その中で、「ガラスの林檎」のブッとんだ歌詞(松本隆)の話があった。

♪愛しているのよ かすかなつぶやき 聞こえないふり してるあなたの 指をかんだ

指をかんだ。確かにこれは「調子に乗っている」。当時も「かむのか…」と思っていた記憶がある。

引き合いに出されたのが伊東ゆかりの「小指の思い出」(作詞: 有馬三恵子)。定番だろう。

♪あなたがかんだ 小指が痛い 昨日の夜の小指が痛い

この2曲を「日本二大指かみソング」と言っていた。

それを聞いて、強烈に蘇ってきた曲があった。西城秀樹「ブーメランストリート」(作詞: 阿久悠)。こんな歌詞がある。

♪カリッと音が するほど小指をかんで 痛いでしょう 痛いでしょう 忘れないでしょう

こわいこわい。「カリッ」て。当時も、子供心に意味もわからずこわかった。

それをツイッターに書いてみた。

そしたらスージー鈴木さんからリツイートをいただいた(うまく貼れないが、私のツイートが引用されている)。

うれしい。

オラシオさんの記事を読んで、note初投げ銭

cakesを購読し、noteを読んでいる。

noteには有料記事と無料記事があり、有料記事はその記事に対して金を払わないと途中までしか読むことができないようになっている。

無料記事にも「投げ銭」がついていることがある。全文読めるが金を払うこともできるというしくみ。有料記事の「途中まで」の無料部分がたまたま「終わりまで」になっているものだとも言える。

これまで、有料部分であれ投げ銭であれ、noteで金を払ったことがなかったのだが、昨日初めて払った。この記事。

note.mu

本当にいい記事だと思った。

カフェやレストランでは、私も店員さん同士のやりとりの様子が割と気になる。それは店の雰囲気にかなり影響を与える。

以前、コーヒーがおいしいのでよく通っていたカフェがあったが、どうも店員さん同士の間に漂う雰囲気がよくないので行くのをやめてしまった。

また、昔近所のとんかつ屋で、管理職とおぼしきおじさんが、私たちの見えるところで店員のおばさんたちのふるまいに(小声ながら)いちいち厳しく指示を出していたことがあった。ピリピリしているのが伝わってくるし、店員さんたちが陰でいやな顔をしているのまで目に入ってくる。「そういうのは見えないところでやってください」と言えばよかったと後で思った。

オラシオさんの記事を読んで、ああよかったな、そういう瞬間を見るとホッとするよなと共感できた。「彼女」の笑顔が浮かんでくるようである。

キウイγは時計仕掛け(森博嗣)

キウイγは時計仕掛け KIWI γ IN CLOCKWORK (講談社文庫)

キウイγは時計仕掛け KIWI γ IN CLOCKWORK (講談社文庫)

 

S&Mシリーズ、Vシリーズ、四季シリーズときて、今はGシリーズを読んでいる。いつのまにか9作目。

建築学会が開催される大学に、γの字が刻まれたキウイがひとつ届いた。銀のプルトップが差し込まれ手榴弾にも似たそれは誰がなぜ送ってきたのか。その夜、学長が射殺される。学会に参加する犀川創平、西之園萌絵、国枝桃子、海月及介、加部谷恵美と山吹早月。取材にきた雨宮純らが一堂に会し謎に迫るが。

 Gシリーズについて作者は以下のように書いている。

ミステリィについて自分なりに見直し、あまりトリッキィなものではなく、どろどろしたものでもなく、真正面から誠実に、シンプルできめの細かい作品を書きたいと思うようになりました。また、矛盾しているように感じられると思いますが、一方では書かなくても良いことを極力書かない、という当たり前の素直な方針を掲げ、ナチュラルでアキュラシィな作りをなんとか目指したいと今は考えています。

Gシリーズ - 浮遊工作室 (ミステリィ制作部)

確かにどの作品も事件の構造はシンプルなのだが、作を追うごとにだんだんわけがわからなくなってきた。この「キウイγ」などは、何が解決なのかよくわからない。

シリーズに通底した謎がいろいろあるのは明らかで、どうやら次作「χ(カイ)の悲劇」以降の3作で解明されていくらしい。森博嗣作品は、作品やシリーズにまたがったしかけが大きな魅力の1つなので、いやが上にも期待が高まる。ひとまず「χの悲劇」が文庫になるのを待ちながら、次のXシリーズを読むとしよう。