全脳自由帳

より考えるために書く

Twitterよさらば

X(Twitter)に投稿するのをやめようと思う。

ポスト(ツイート)はしない。読む方は完全にはやめないが、それもフォロー数をしぼって、ごく限定された範囲だけを時々見るにとどめるつもりである。iPhoneアプリは削除して、ブラウザでだけ見るようにする。

離脱の理由は2つ。最近のX(Twitter)の荒れようと、プラットフォームとしての機能・運営の劣化である。

少し前に比べても、X(Twitter)内の雰囲気は確実に悪化していると感じる。もちろん自分の見ているのはごく限られた範囲だが、罵詈雑言・誹謗中傷および幼稚な発言に遭遇することが明らかに増えた。

オフラインの世界でも、口汚いことをしゃべっている人は世の中にたくさんいて、ほとんどの人はそういう人とつき合うことをできるだけ避け、関わらないようにして暮らしているわけである。しかしX(Twitter)では好むと好まざるとにかかわらずそういうものが目に入ってしまう。

そして情けないことに、東に誹謗中傷があると聞くと「汚いもの見たさ」で見に行き、西に知性のカケラも感じられないポスト(ツイート)があると聞くと「どれどれ」と見に行って「これはひどい」と言っている自分がいる。時間とメンタルパワーの浪費だし、だんだん自分が「他人の批判をするばかりで何もしない老人」になってしまうのではないかという危機感がある。

X(Twitter)はいろんな社会課題について情報を得たり考えたりすることのできる場だった。しかしそれらに関するやりとりにも、学びにつながらないところで不快な気持ちにさせられることが増えた。HPVや新型コロナのワクチン、ALPS処理水問題、エネルギー問題、ジェンダーの問題、細かいところでは掛け算の順序。どれももう少し建設的な議論ができないものかと思って見て(時には少し参加して)きたが、状況は悪化してきている。

少しでも世の中をよくしようと真摯に発信・議論されている人たちにリスペクトの気持ちを強く抱く一方で、どれだけ説明しても(同意するか以前に)理解しようとせず、すぐに相手をバカにしようとする人たちが次から次へと出てくることに辟易する。「○○から金もらってるのか?」というリプライが飽きもせずつくのには激しく脱力させられる。

いわゆる知識人に位置づけられるような層の中にも、闇落ちしたとしか思えないようなことを吐き続ける人がいる。人間の心のあやうさみたいなものを学ぶ機会にはなったが。

こういったことはある程度はテキストベースの議論の宿命なのかもしれないが、それにしても最近の状況はひどい。もともとあったものをたまたま私がよく見かけるようになっただけ、というのではないと思う。

プラットフォームとしての機能・運営の劣化も顕著である。イーロン・マスクがTwitterを買うと言った時、言論プラットフォームとして正常化したいという彼の発言に期待した自分が恥ずかしい。彼が来てから何かいいことがあっただろうか?

botがたくさん止まった。公式アカウントがいくつも撤退した。アカウントを突然凍結されたという話を聞くことが増えた。代わりに、金を払った人があからさまに優遇される「身分制度」が導入され(金を払うと「おすすめ」にも出やすくなるらしい)、「誰もが1ツイート140文字(日本語の場合)で自分の言いたいことを書く」という「型」も崩されてしまった。「おすすめ」に変なポスト(ツイート)が流れてくるようになった。全員有料化のウワサもずっとくすぶっている。

しかも"X"って何よ。こんな変な名前に変わったことで、アプリを開くたびに、いやアイコンを見るたびに黒いバツ印を見て「ああ、イーロンの手に落ちたのか」と思ってしまう。

友人にイノベーターとしてのイーロン・マスクを崇拝している人がいて、また私の古巣の会社がテスラと組んでいることもあって、それなりにすごい人だと思っていたのだが、いや実際すごい人なのだろうが、まさかこんな奴とは思わなかった。

私がTwitterのアカウントを取ったのは2009年12月のようである。もう14年近くになる。最初、140文字の制限つきで「つぶやく」ことやそれを読むことの意味がわからなかったが、使っていくうちにだんだんそのおもしろさを感じるようになった。Twitterは私にとって「やってみなければわからない」ということを強烈に教えてくれた体験でもあった。

でもそれも終わりにする。X(Twitter)のこの先を体験しようとしてこれ以上とどまるのは、自分にとってマイナスだと思うから。

Twitterよさらば。楽しませてもらった。ありがとう。でももう書かない。

続・本は貸し借りしないという、守れない誓い

4年前にこんなことを書いた。

note.whole-brain.jp

今読むと、「ああそうそう、いいこと書いてるな」と思う。自分が書いたのだから考えが合うのは当然だが。

本の貸し借りはしない、と自信なげに書いているが、それからの4年間、ほぼ守っている。家族以外の人から「その本、貸してもらえますか?」と聞かれても「本の貸し借りはしないことにしているので」と言えるようになった。年をとってずうずうしくなったのかもしれない。

快適に、積極的に本を読める環境を自分で作るのは大事である。上記エントリで「本というのは人に借りたという事実によっていくぶん読む気が減じてしまうものなのである」と書いているように、私にとっては本の貸し借りは自分の読書環境を侵害するものだとさえ言える。そんなことを思いながら借りるのも失礼だし。

…と誓いを新たにして、これからも本を貸し借りしないようにしよう。

生まれて初めてのことを毎月やる

退職して時間ができることもあり、今年はいろんなことをやってみたい。その一環として、毎月何かしらの「生まれて初めてのこと」をやることにした。

長いこと生きているが、やったことがないことというのは意外と多い。それを回収してみようと思うのである。

生まれてこの方やったことがなくて、公序良俗に反しなくて、安全・健康面の問題がなくて、コスト(金・時間・手間)がそれほどかからなくて、少しでもやる気になることであれば、大きなことでも小さなことでもいい。

1月は何といっても「会社をやめる」というのを初めて経験したのでクリア。

2月は髪を染めてみることにした。それだけでなく、散髪屋にしか行ったことがなかったので、「美容院に行く」「女性に髪を切ってもらう(小さいころの母親を除く)」も一度に初体験できた。仰向けでの洗髪も初めてだった。薄い緑系の色に染めてもらい、白髪も目立たなくなってグッド。伸びてきたらまた行こう。

さて3月。今月は製作系に手を出すことにして、ジグソーパズルをやることにした。子供向けの30ピースぐらいのものはやったことがあるが、それはやったうちに入らないだろう。ジグソーパズル好きの人たちの助言を得て、500ピースのを購入した。風景画なので結構大変そう。はたして完成できますかどうか。

 

 

退職後の生活、重点項目

組織開発ブログのエントリに書いた通り、1月末をもって会社をやめた。それから1ヶ月以上が経つ。無職の身である。

退職してからどんな生活・活動をしていくかまったく決めていなかったのだが、まずは「これからどんな仕事をしていくか?」「どうやって社会に貢献していくか?」みたいなことは考えずに、自分にとって楽しいことおよび意義があると思えることをやっていくことにしようと思う。幸いにして、すぐに仕事を始めなくても生活の方は何とかなりそうである。

当面の重点項目を挙げるとするなら次のような順番になる。

  1. 自分の健康
  2. 家族
  3. 自分の学び、成長
  4. 自分の楽しみ

当たり前のことだが、何と言っても健康が一番大事。この機会に、食事・運動・睡眠の3つについてきちんと管理して、調子が悪いところは医者に行くなりして治しておきたい。

次が家族。妻や二人の娘の幸せに貢献するにはどうしたらいいか、考えて行動していきたい。具体的なところでは、毎日夕飯を作るというのを始めた。

自分の学び・成長と楽しみについては、数学の勉強、楽器の練習、読書などなど。なかなか読めていなかった組織開発関連の本もじっくり読んでみたい。よさそうなセミナーや集まりには顔を出したいし、ウェブの記事などから知見を吸収することもやっていく。

いやー楽しいね。こういう生活を続けてみて、自分がどんなことをやりたくなるかを観察するつもりである。

「ご承知の通り」をやたら使う人

人前で話をする時、「ご承知の通り」というフレーズを頻繁に使う人がいる。この言い方がどうも好きになれない。

「ご承知の通り、先月、日銀の金融緩和が入りまして…」

というような言い方。「ご存じの通り」でも同じ。

出された話題(この例では日銀の金融緩和が入ったこと)を自分が知っていればいいのだが、知らない場合、「え? みんな知ってることなの?」とひそかに恥ずかしい思いをすることになる。

普通に「先月、日銀の金融緩和が入りました」とだけ言えばいいのに、なぜわざわざ「ご承知の通り」をつけるのだろう。

想像するに、「みなさんはいろんなことに通じておられるので、もちろんご承知でしょう」と聴衆を持ち上げようという意図があるのではないか。

しかし、「あれ? 私は知らない」と恥ずかしい思いをする人がいたら、持ち上げるどころか不愉快な思いをさせていることになる。

持ち上げようとかどうとか、そんなことまで考えて言っているのではないのかもしれない。だとしても、少なくとも上に書いたようなことにまでは考えが及ばない人なのだなあと思うのである。

サザンと松任谷由実が締めた平成(と昭和)の紅白

あけましておめでとうございます。

www1.nhk.or.jp

子供のころから、紅白歌合戦はナナメの視線で割としれっと観ているのだが、昨日の紅白は非常によかった。特に後半、Superfly以降の流れ。このクオリティと密度は紅白でなければ出せない。米津玄師は圧巻だったし。まあ、松田聖子はなんであんなにキーを下げるの? と思ったが(調べてみたら、3曲をオリジナルからそれぞれ2音・1.5音・2音下げていた。あんまりじゃないのか?)。

そして最後のシーンにすっかり心を奪われたのだった。「勝手にシンドバッド」で桑田佳祐と松任谷由実が肩を組んで「ララーラーラララララーラー」。

我々の世代にとっては特別な組み合わせである。この二人が日本の音楽界を引っ張っていたのだし、ポピュラーミュージックの象徴だったのだ。

本当にそう。

「平成最後の」というフレーズには飽きてきているが、二人のシーンで平成が、そして昭和までもが締められようとしているなと感じた。

いやあよかったなあ…とひとしきり感慨に浸ったあと、ふと寂しくなる。

紅白の大トリとは、まさに「体制側」なのである。我々の世代を象徴する二人が大トリに出て、それを感慨深く観ている自分…ああ、時は流れた。

誠に同感。

サザン登場の頃(「勝手にシンドバッド」から「いとしのエリー」までの流れ)のインパクトについては、今でもことあるごとに若い人に語ってしまう。昨日の桑田佳祐は、当時と同じでもあり、全く違ってもいた。

平成が終わる。新しい時代も、古い音楽を大事にしながら新しい音楽を楽しんでいきたい。

何十年かぶりに「シェーン」を観た

asa10.eiga.com

 もう日が経ってしまったが、ゴールデンウィークの「学校は休みでないが会社は休みの日」に妻と「シェーン」を観に行ってきた。

この映画、子供のころにテレビの洋画劇場で観たことがあるだけで、映画館で観るのは初めて。

「シェーン」といえばあのシーンである。

"Shane. Shane. Come back!"

最後にこれがある前提で観る。そして、実際このシーンのためだけにすべてがある気がする映画だった。実にシンプル。ただ、"Shane"を2回言っているとは知らなかった。

それと、このシーンが明け方だったとは。昼間のシーンだとばかり思っていたので、夜の決闘の場面で「このあとあのシーンなのに時間帯が合わんぞ…」と心配してしまった。

子供の頃に観たテレビ(吹き替え)では「シェーン、行かないで!」と訳していたと記憶しているが、今回の字幕は「シェーン、戻ってきて」だった。

コンビニで「QuickPayでお願いします」はいつ言うのが最適なのか

以前「現金を使わないようにする」という話を書いたように、最近は極力電子マネーで払うようにしている。

コンビニではApple PayのQuickPayで払うので「QuickPayでお願いします」と言うことになる。このセリフをいつ言うかをいつも迷う。

  1. 「いらっしゃいませ」
  2. こちらが商品を渡す
  3. 商品のバーコードを1つずつ読み取る
  4. 「◻︎◻︎◻︎円です」
  5. 商品を袋に詰める
  6. 商品をこちらに渡す

この流れの中でいつ「QuickPayでお願いします」と言うべきか。

普通は4.の後なのだと思うが、そうすると店員さんがすでに5.の動作に入っていて、QuickPayであることをレジに打ち込むためにまたレジに手を戻さなければならなくなることが多い。まったく美しくない。流れを止めてしまい、会計に要する時間が最適化されない。

では2.のタイミングで、商品を渡しながら「QuickPayでお願いします」と言えばいいかというと、4.の時にそれを忘れられていて、あるいは確認のために、もう一度聞かれることがあるのである。早く言い過ぎてもいけない。

かといって、3.の最中に言うと聞いてくれていないことがあるし、4.にかぶせて言うのはあつかましい。

結局、4.を言ってから5.に移る前の一瞬の隙を突いて言うように身構えるのだが、これが針に糸を通すようなテクニックを要する。

正解はわかっている。何秒も違わないのだから、会計の時間を最適化しようなどとは思わずに、4.のあとでゆっくりと言えばいい。しかしこちとらそれができない性分なのである。

いっそのこと、「QuickPayでお願いします」と書いた札をぶら下げながら会計に臨みたいくらいである。

あるいは、何で払うか選択するボタンをこちらが押すようになっていた方がありがたい。それならこちらの好きなタイミング(3.の間とか)で伝えられるし、忘れられることもない。ボタンを押さなかったときのデフォルトは「現金」でかまわない。

屍人荘の殺人(今村昌弘)

屍人荘の殺人

屍人荘の殺人

 

昨年鮎川哲也賞を獲った作品。ミステリー小説は基本的に文庫になってから読むことにしている(ハードカバーや新書は高くてかさばるからというのが主な理由)のだが、この作品があまりにも話題なので誘惑に勝てず読むことにした。

神紅大学ミステリ愛好会の葉村譲と会長の明智恭介は、曰くつきの映画研究部の夏合宿に加わるため、同じ大学の探偵少女、剣崎比留子と共にペンション紫湛荘を訪ねた。合宿一日目の夜、映研のメンバーたちと肝試しに出かけるが、想像しえなかった事態に遭遇し紫湛荘に立て籠もりを余儀なくされる。緊張と混乱の一夜が明け―。部員の一人が密室で惨殺死体となって発見される。しかしそれは連続殺人の幕開けに過ぎなかった…!! 究極の絶望の淵で、葉村は、明智は、そして比留子は、生き残り謎を解き明かせるか?! 奇想と本格ミステリが見事に融合する選考委員大絶賛の第27回鮎川哲也賞受賞作!

クローズドサークルでの密室殺人。精緻な謎解き。まさしく本格ミステリーである。論理でスルスルと解決されていくのはまことに気持ちがいい。

途中でこの探偵がホワイダニットにこだわる人だということがわかるのだが、それが最終的に生きてきた感じはあまりしなかった。そうでなくても変わらない気がする。

探偵とワトソンの関係やエピソード、こういうのがきらいだとか安っぽいと言う人もいると思うが、私は結構好きである。

本筋とは関係ないのだが、読み終えてから改めて考えると、このクローズドサークルの原因を作った人は何がしたかったのか? よくわからない。そこは気にしなくてもいいのだとわかっていても気になる。

作者のインタビューが公開されている。

www.shosetsu-maru.com

もともとミステリーにそんなに詳しいわけではないという。ミステリー作家になる夢を追う期限ギリギリにこの作品で受賞。才能のある人が埋もれなくてよかった。

東野圭吾作品の今後を案じる

「ラプラスの魔女」の感想を書いたが、そのあと同じ作品に関するid:fujiponさんのエントリを読んで、本当にそうだと思った。

fujipon.hatenadiary.com

東野さんは、本人としては「ミステリの先頭集団」に立って、独自のアイディアでずっと引っ張っているつもりが、いつのまにか、同じような作品を大量生産する、西村京太郎さんみたいな存在になりつつあるのではなかろうか。

まさに。最近の東野作品に関して私が漠然と抱いていた不安は、「西村京太郎になってしまう」ことなのであるなあ。

西村京太郎が「トラベルミステリーをやたらたくさん書いている人」であるように、東野圭吾もこのままでは「わけありな人の事情がだんだん明らかになっていくミステリーをやたらたくさん書いている人」になってしまうのではないか。

「いや、でも『殺しの双曲線』はいいよ」というのと同じような意味で「『秘密』や『白夜行』はいいよ」と言わなければならなくなる日は来てほしくない。

ペースを落としてもいいから、昔のようなハッとさせられる作品を読ませてほしい。近年でも「祈りの幕が下りる時」などはかなりよかったから、まだまだ期待しているのである。