全脳自由帳

より考えるために書く

Apple Musicにどっぷりはまる

www.apple.com

Apple Musicをファミリーメンバーシップで使っている。加入したのは昨年(2016年)の10月だったから、ちょうど1年になる。

きっかけは、昨年9月にSpotifyのサービスが日本で始まったことだった。Spotifyを無料プランで使ってみて、これは有料会員になる価値があると思った。そこでSpotifyとApple Musicを比較調査した結果、結局Apple Musicの有料会員になることにした次第。

選択の決め手は曲のラインアップではなく、Apple MusicならiPhoneのミュージックアプリですでに持っている曲と統合して聴けることと、ファミリーメンバーシップ(月額1480円)があること。曲のラインアップについては、洋楽に強く邦楽に弱い点は同じで、それほど差はないと判断した。プレイリストはSpotifyの方が充実しているようだが、私はあまり使わないので重視せず。

Apple Musicに加入して、聴ける音楽の幅がグンと広がった。特に洋楽の好きな人にとっては天国だと思う。最新アルバムがすぐに入るとは限らないが、少し前のものならたいがいのアーティストの曲は聴ける。ブルーグラスのアルバムも、古いものも含めてたいてい聴けるのは本当にうれしい。

それに加えて予想外に楽しいのは、日本の昔の曲を聴けること。たとえば岩崎宏美を聴いてみようとか、松田聖子のアルバムはどんなだったかとか、チェッカーズを久しぶりにとか。わざわざ買ったりしないこのあたりのアーティストを、たまに思い出した時に聴けるというのはいい。

ファミリーメンバーシップは月額1480円。家族4人で使うので、個人の980円(年間会員だと年額9800円)に比べてかなり割安。家族はそれぞれ自分の好みに合わせて楽しんでいる。金額分のメリットは十分享受している。

ただ、曲の管理はややこしくなった。手持ちのすべての曲がiCloudミュージックライブラリというものに入り、クラウドに情報を保持される。それはいいのだが、ジャケット画像が勝手に変わったり同じ曲が重複して入ったり、よくわからないことが起こる。またアーティスト名で「Pentatonix」と「ペンタトニックス」が混在したりするような日本語がらみの面倒も多い。また、リッピングした曲を家族のiPhoneに入れる簡単な方法が見つからない。まだまだ細かいところでは洗練されていないサービスという感じがする。

identity(山本彩)

identity(通常盤)

identity(通常盤)

 

Rainbow」に続く、さや姉の2枚目。

全編気持ちよく聴ける。1作目に比べて歌がうまくなった。私は低い声の出る女性ボーカルが好きなので、さや姉のボーカルは心地よい。自分で作詞・作曲している歌もなかなかいいのである。ほかの人に作ってもらった曲の方がクオリティが高いとは思うが。

さや姉はNMB48やAKB48としてでなく一人で音楽番組に出てギターを弾いて歌う機会も多い。どう見ても、アイドルになりたいのではなくミュージシャンとしてやっていきたい人である。本人も「シンガーソングライターが夢」と言っている。アコースティック・ギター・マガジンのインタビューでもそう語っていた。

ミュージシャンとしてがんばっていこうとしている人は応援したい。さや姉の他には、BABYMETALのSU-METAL(中元すず香)もそういう人だと思う。

座右の銘は何ですかと聞かれたら

たまーに「座右の銘は?」と聞かれる。

「清濁併せ呑む」という言葉が好きで、以前はこれを答えていた。辞書を引くと「善悪の区別なく受け入れる、心が広いさま」を指すようだが、見たくない現実をも直視して前に進む、という意味もあると思っている。

最近は、以下の「ニーバーの祈り」の方がしっくりきている。今座右の銘を聞かれたらこれを答える。

O God,
Give us serenity to accept what cannot be changed,
Courage to change what should be changed,
And wisdom to distinguish the one from the other.

日本語訳はいろいろ出ているが、私はこう訳してみたい。

神よ、
変えられないものを受け入れる冷静さと、
変えられるものを変えていく勇気と、
それらを見分ける知恵とをお与えください

我々はとかく、どうやっても変えられないものを一生懸命変えようとしたり、変えられないことをいつまでも嘆いたり、あるいは変えられるかもしれないのに何もせずにやはり嘆いたり。

受け入れる冷静さと変える勇気を持って前に進んでいきたい。それらを使い分けられる知性を持ちたい、といつも思う。そう考えると、「清濁併せ呑む」と近いものがある。自分に響く言葉はどこかでつながっている。

片眼の猿(道尾秀介)

片眼の猿―One-eyed monkeys (新潮文庫)

片眼の猿―One-eyed monkeys (新潮文庫)

 

久しぶりに道尾作品を読んだ。未読の中で一番古いのを、ということで、2006年の作品。

盗聴専門の探偵、それが俺の職業だ。目下の仕事は産業スパイを洗い出すこと。楽器メーカーからの依頼でライバル社の調査を続けるうちに、冬絵の存在を知った。同業者だった彼女をスカウトし、チームプレイで核心に迫ろうとしていた矢先に殺人事件が起きる。俺たちは否応なしに、その渦中に巻き込まれていった。謎、そして……。ソウルと技巧が絶妙なハーモニーを奏でる長編ミステリ。

なんかよくわからない話だった。半分ハードボイルドのような文体。盗聴しているとあまりにも都合のよいタイミングですごいことが聞こえてくる(そして都合よく一部が聞こえない)、どうも現実味のない展開。

そして、数多くちりばめられているミスディレクションがどうも気持ちよくない。「Aだと思っていたらBだった」のBがショボい。「だから何? どっちでもよかったじゃないか」となって、カタルシスが得られないのである。同じ作者の「向日葵の咲かない夏」とはえらい違い。

ついでに書いてしまうと、最後のくだりはどういう意味だったのだろう? 私が意図を読み取れていないのか、深い意味はないのか…。釈然としないエピソードだった。

あえて優先座席に座る

出張で時々行く東京で電車に乗った時に違和感を覚えることの1つとして、「優先座席に座る人が少ない」というのがある。かなり混雑していても誰も優先座席に座っていなくて、「近くの人が座ってくれたら、立つスペースが少し空くのに」と思うことがある。大阪ではあまり見かけない光景である。

席を譲るという行為がいやだからかと思っていたのだが、それだけではなく、もっと強い理由もあるらしい。

gakumado.mynavi.jp

優先座席には座らないという人の多さに驚く。「周囲から冷たい視線を浴びる」って本当なのか? 考えたこともなかった。

優先座席はあくまで「優先」であり、「専用」ではない。空いていれば座って、お年寄り、体の不自由な人、妊娠している人、…が来たら譲ればいいこと。というか、本来は全ての座席が優先座席なのである。あえて特定の座席だけをそう決めているのは、(残念ながら)そうした方が効果が出る(譲る人が多くなる)からだと思う。

昔大きな注目を集めたこの記事でも、「シルバーシートに行けよ」というセリフがあったな。

rakudaj.seesaa.net

そんなことを普段考えていたら、この記事を見つけた。

rocketnews24.com

目からウロコ。譲らない人に座らせないために優先座席に座るというのはいい。

以来、つとめて優先座席に座ることにしている。「冷たい視線」を浴びているのかもしれないが、そんなこと知るか。

そうするからにはもちろん、座る必要のありそうな人が来たら譲っている。でも隣に元気そうな若者が平然と座っていたりすると、「君が譲ったら? 僕もそんなに若くはないよ…」と言いたくなることはある。

コンタクトレンズを使う

何十年もメガネにはずっと縁がなかったのだが、年をとってからなぜか近眼が進んできて、生まれて初めてメガネ(近眼用)を作ったのが数年前。そして最近は老眼も進んできた。

ところがメガネがどうも苦手で、かけているとだんだん頭が痛くなってくる。車を運転する、映画を観る、プレゼンを聴くなどの要所要所でだけかけるようにしていたのだが、だんだん近眼が進んできて不安になってきたので、コンタクトレンズの着用を検討することにした。

昔、ある程度以上の年齢になるとコンタクトレンズは無理だと聞いたことがあった。しかし調べてみると別にそうでもないらしい。おまけに遠近両用コンタクトというのもある。

意を決して医者に行き、合うレンズを選んでもらった。遠近両用といっても限界はあり、遠くがはっきり見えるようにするほど近くが見えなくなる。近くがちゃんと見える範囲で遠くができるだけ強化されるように調整してもらって購入した。 

ワンデイ(一日使い捨て)なので、少し値は張るが管理はとても楽である。レンズはAmazonなどでも買える。

つけ心地が心配だったのだが、つけていることを忘れてしまうくらい、ほとんど違和感がない。私の世代の人たちがコンタクトをつけ始めた数十年前とはえらい違い。技術の進歩はすごい。ただ、一日つけていると目がかゆくなりやすいとは感じる。「今日はもういらない」と思ったらはずした方がよさそう。

私の場合の裸眼、メガネ、コンタクトレンズでの視力を表にするとこんな感じになる。

 
裸眼 × ×
メガネ ×
コンタクト

 コンタクトにすると、遠くが裸眼よりよく見えるようになる代わりに、近く(本やスマートフォンを見る距離)は若干見えにくくなる。何といってもコンタクトレンズはメガネと違ってつけたりはずしたりできないので、いったんつけると△状態を受け入れて過ごすしかない。自宅にずっといる日などはつける意味があまりない。

この表からは、普段メガネをかけて、近くを見る時だけはずす、という対応で○以上をキープするのが一番いいことになるが、やっぱりメガネは苦手。日によってコンタクトレンズと裸眼を使い分け、要所要所でメガネをかけるというスタイルでいくことになりそうである。

大人が数学を学ぶ理由

大人のための数学教室 和(なごみ)に通っているという話を書いた。この教室に大人が数学を学びに来る動機というのはどういうものなのだろう。

和(なごみ)大阪教室の松森室長に聞いてみると、代表的なのは以下の3つとのことだった。

  • 資格取得や仕事のために数学が必要になった
  • お母さんが子供に算数・数学を教えるため
  • 純粋に数学が好きだから(私はこれ)

お母さんが習いに来るというのはえらいなあと思う(お父さんが来ることはまずないらしい)。お母さんかどうかはわからないが、和(なごみ)のウェブページにある「授業例」の動画では、女性に1/2 + 1/3の計算を教えている。


大人のための数学教室和 酒井先生の授業例 「分数の足し算基礎」

数学セミナー 2017年4月号で、松森さんが「数学が必要になるとき、なったとき」という記事を書かれていて、そこにはもっと詳しい事例が載っている。

この記事で印象的だったのは、以下の部分(引用)。

苦手意識克服のために大人になってから再び数学を勉強してみると,予想外に楽しいという感想を持たれる方がよくいます.おそらく理由としては,試験で良い点を取らないといけないというプレッシャーがないことや,納得がいくまで時間をかけて考えられること,また人生経験を積まれて数学が面白いと思える価値観がご自身の中に醸成されたことなどがあるのだと思います.

そう、そうなのである。プレッシャーなく数学に関われば、おもしろいと思う人は多いはずだし、「価値観が醸成される」ということも絶対にある。

学校で教わっている時にもおもしろさの片鱗に気づく生徒がもっと出てくるような教育であるといいなと思う。

「大人のための数学教室」で数学を学ぶ

今年の4月から、数学を習いに行っている。

3年ぐらい前に「数学や物理(大学レベルの)をちゃんと勉強しよう」と思い立ち、解析学相対性理論などの本を買って独習をしていたのだが、なかなかはかどらなかった。悩みは主に2つ。

  • わからないところがあっても教えてくれる人がいない
    本文の解説に理解できないところがあるときや、演習問題の解き方が巻末の解答(不親切なことが多い)を見てもわからないとき、誰にも聞けない
  • 怠けてしまう
    資格を取ろうとしているわけでも、試験があるわけでもない。軽い「監視」がないと、どうしても勉強を後回しにしてしまう

一人でやっている限りこれらは解決できそうにない。数学サークルみたいなので仲間と一緒に勉強できるところがないかとか、ウェブ上に何かコミュニティがないかとか、いろいろ調べてみたのだが、よさそうなのは見つからなかった。

ところがある日、何げなく「数学 大人 教室」か何かでググってみたら、「大人のための数学教室 和(なごみ)」というのが出てきた。しかも大阪にも教室があるではないか。

さっそく体験セッションを申し込んで話を聞きに行き、よさそうなので入会することにした。

4月から月に2回のペースで授業を受けに行っている。1対1で80分。まずは大学1回生が学ぶ微分積分をやることにして、すでに勉強し始めていた「岩波講座 現代数学への入門〈1〉(1-2)微分と積分1・2」をテキストに。進め方としては、講義をしてもらうというのではなく、自分で勉強してから質問事項やわからないところを授業の1週間前に先生に送っておき、授業でそこを解説してもらうという形式を選んだ。

これは楽しい。わからないところは解説して(もしくは一緒に考えて)もらえるし、質問事項を先に送らないといけないというのがあるのが勉強の推進力になる。月2回というのは結構きつくて、延期をお願いすることもあるが、このペースを基本にやっていきたい。

微分積分の次はやはり線形代数か。代数や複素解析もやりたいし、ゆくゆくは相対性理論量子力学も学びたい。学習欲が刺激される。

自分が楽しいと思うことに対しては積極的に行動を起こした方がいいなとつくづく思う今日この頃である。

現金を使わないようにする

大昔、クレジットカードが大きく普及し始めたころ、「こんなものを日常的に使うと、金を使っている実感がないから絶対に無駄遣いしてしまう」と思ったものだった。以来、できるだけ現金で払うようにしてきた。

しかし時代は変わった。まず、ネットで物を買うようになったせいで、クレジットカード(実際には物理的なカードではないが)を使うことが大きく増えた。加えて私にとって大きかった最近の変化は、iPhone7にしてApple Payが使えるようになったこと。昔のガラケーでも電子マネーは使えたが、Apple Payはずっと使いやすい。

もう1つ、不勉強にして知らなかったのだが、多くのコンビニではクレジットカードでの支払いがサインレス(暗証番号もなし)でできる。うちの近所のスーパーでもそうである。これは早い。この事実、どこのコンビニやスーパーでも強調されていないのは、手数料をカード会社に払わないといけないからか?

通貨というのは、価値を数値で表そうとしたもの。支払いをする時、別に現金(紙幣・貨幣)で渡さなくても、その金額分だけこちらの財産が減り相手の財産が増えれば(それがセキュアに実現できれば)それでいい。そのことを日常的に実践すべき(してよい)時代が来ているような気が(遅ればせながら)している。

そこで最近、トライアルとして、できるだけ現金を使わずに電子マネーやクレジットカードで払うように変えてみた。コンビニではApple payを使ってQuickPayで払う。JRの駅などではiPhoneSuica。これらがダメでクレジットカードを使える店ではクレジットカード。

とにかく支払いが早い。電子マネーか暗証番号なしのクレジットカードなら一瞬で終わる。失礼ながら、現金で払っている人たちがもっさりしているように見えてくる。新幹線の時刻を気にしながら駅売店の列に並んでいる時、「みんなSuicaで払ってくれたら早いのに」と思う。

私は「クレジットカードでポイントがたまる」ということにはあまり興味がないのだが、そこに楽しみを見出す人にはさらにメリットが大きいはず。

結果としてクレジットカードの請求額は大幅に増えた。その代わりATMで現金を引き出す額は当然減っていて、トータルで無駄遣いするようになったという感覚は特にない。

トライアルとして始めた「現金払い回避」だが、どうやら現金中心の生活に戻ることはなさそうである。

本を読むための旅・さらにその後(2)

まわりの人に読書旅行の話をすると、反応はきれいに2つに分かれる。「いいね! 素敵な時間! 贅沢ですね!」と言ってくれる人と、「え? せっかく遠いところに行くのに、本読むだけで帰ってくるの? 意味わからん!」と言う人。体感覚では8~9割が後者である。まあそうなるよなと思う。

別に言い訳をする必要もないのだが、そういう人たちが想像するであろうよりも実際ははるかに「旅行」である。道中ただただ本を読んでいるわけではない。たまに景色を見たりもするし、鈍行は乗り換えの待ち合わせ時間が長くなるので、その間に駅のまわりを歩いたりカフェに入ったり(まあ本を読むのだが)もする。駅弁を食べる楽しみもある。以前のエントリにも書いたが、1日乗車券で地下鉄をグルグルまわった時はつまらなかった。

あと、「すぐ帰ってくるということは、キセルですか?」と時々聞かれる。出発駅近辺の駅までの切符しか買っていないのではと思うらしい。もちろん往復全区間の切符をちゃんと買っている。「ルール」にするまでもないことである。

たとえば和歌山の田並までは往復8000円だった。旅行に8000円というのは全然高くないと思うし、特急券を買っていないから普通の旅行よりかなり安く行けている。しかし、すぐ帰ってくるのでは意味がないと思う人にとっては8000円は高いということになる。

面と向かって読書旅行の話をすると、上記のように「意味わからん」という反応が多いが、Facebookに投稿すると「いいですね!」というコメントだけが来る。つくづく、Facebookは素直に感じたことをやりとりする場所ではないなと感じる。