否定疑問文に対する答えは、以下のようにするのが本来の姿である。
himazu blog: 否定疑問文への答え方
A: You don't have a Blu-ray player, right?
B: No, I don't. (持っていない場合)
B: Yes, I do. (持っている場合)
しかし、英語のネーティブスピーカーでない人には、持っていない場合にYes, I don't.と答える人が少なくない。日本人に有りがちな間違いだが、インドや香港の人にもしばしば見られる。相手がネーティブスピーカーでない場合は注意しないと相手の意図を取り違えることになる。
そして、自分が答えるときにはcorrectあるいはrightを使うことにしておくと確実である。上記の質問に対して持っていない場合は「Correct. I don't have one.」持っている場合は「I do have.」と答えるのである。持っている場合Incorrect.と言ってもいいが、あまり言わないような気がする。
そうそう。日本人にとって、英語の否定疑問文への答え方というのは意味が逆になるのでとてもややこしい。わかっていても間違えそうになることがしばしば。時々"No"と言いながら顔は思いっきりうなずいていたりすることがある。「はい」「いいえ」のとり違いは大きな問題になることもあるので、神経を遣う。
特に答がYes(日本語では「いいえ」)である場合に心理的抵抗が大きい。"You don't have a Blu-ray player, right?"と聞かれて「持ってるよ」と思いながら"Yes"と答えるのは、「持ってないなあ」と思いながら"No"と答えるよりストレスを強く感じる。そのため、私は否定疑問文に対して"No"と答えることはあるが、逆の場合には"Yes"と言わずに、上記の例と同じような感じで"I have one."というような答え方をしているような気がする。
これは多分、持っていない場合には相手の言っていることはとりあえず正しいので「持っていない」という事実に気持ちのフォーカスを切り替えて"No"と言えるのに対し、持っている場合には「そんなことないよ、持ってるよ」と相手の言うことを正したいという欲求が強いために"Yes"という単語を使いづらいということだと思う。
そのことと関係があるかどうかはわからないが、フランス語にはこのような場合向けの単語があるらしい。英語のYes/Noはフランス語では普通Oui/Nonだが、否定疑問文に対するYes(日本語では「いいえ」)に対応するSiという単語が別に存在する。そんなややこしい使い分けをよくできるなと思ってしまうが、それがネイティブというものである。フランスの人はごく当たり前に使い分けているはず。
さらにややこしいことに、否定疑問文に対する答え方は同じ言語内でも必ずしも一定ではないように思える。日本語の場合、Blu-ray player(BDプレーヤー)の例でいうと、
A: BDプレーヤー持ってないの?
B: はい。
だとBは持っていないと言っていることが明白だが、
A: BDプレーヤー持ってるんじゃないの?
B: はい。
だと、持っていると言っているのか持っていないと言っているのか微妙である。Aの質問の抑揚が「持ってる」「ない」のどちらを強調していたかに依存するかもしれない。したがってこの場合にはBは「持ってます」「持ってません」というふうに、「はい」「いいえ」を使わずに答えるのが普通だろう。
A: そんなことされたら誰でも怒るんじゃない?
B: はい。
この場合、形式的には「〜じゃない?」は否定疑問文だが、「はい」は普通「そうですね、怒りますね」という意味になるような気がする。
どういう文章だったか忘れたのだが、こういうことがネイティブとの英語の会話でもあった。「今のはYes/Noが反対になってたよね。なぜ?」と聞くと、「うーん、それは文脈によるな」とのことだった。やはり、あいまいな場合にはYes/Noを使わずに"I don't have a Blu-ray player.のようにオウム返しで答えておいた方が安全である。
そういうことを気にしだすと、日本語と英語がミックスされる場合も気になってくる。例えば会議などで「○○しないんですか?」という質問に「イエスです」と言う人がいる。この場合はほぼ間違いなく「はい」の意味で使っているとは思うが。また、アンケートなどで
問: 休みの日はあまり外出しない
・Yes ・No
これでは、よく外出する場合にYesなのかNoなのかわからない。典型的な悪い質問である。回答の選択肢が「Yes・No」でなく「はい・いいえ」であっても、アンケートで否定形での質問はしてはいけないものである。
このYes・No問題、日本語方式と英語方式(はたまたフランス語方式)のどちらが言語仕様として自然というか妥当だと考えられるのだろう。私は日本語の常識に染まっているので公平に判断できないが、学者同士でディベートをやったらおもしろそうな気がする。