最近の偽メール問題でもそうだが、何か問題が起こると「問題を起こした人が責任をとって辞めるかどうか」ということがよく話題になる。
「責任をとる」とか「責任を持つ」の意味するところについて、昔からどうも釈然としないものを感じていた。自分の言動に責任を持たなければ/とらなければいけないとは(その定義がはっきりしないまま)思っているが、では個々の問題について何をしたら責任をとったことになるのかと言われると難しい。「辞めたら責任をとったことになるのか?」「過失で人を死なせてしまったとして、責任をとるといっても、いくらがんばったって死んだ人は帰ってこないんじゃないの?」というやつである。
iwatamさんのサイトに「議論のしかた」という文章がある。まだ部分的にしか読んでいないが、おそろしく論理的に整理されている。その中に「責任とは何か」という節がある。
...「○○に対して責任を持つ」というのは、○○の評価を上げるような行動をしなければならない、ということです。例えそれが自分の利益と相反していても、です。
議論のしかた: 4.3. 責任とは何か
例えば社長は会社に対して責任があります。社長は会社の評価を上げるように努力しなければなりません。それは利益の出る会社にするために経営計画を見直すことだったり、自分より優秀な人を社長に据えて自分は社長を辞める事だったりします。しかし責任のないヒラ社員はたとえ会社の社会的評価が低くても「それを上げるために自分の利益を犠牲にして何かしなくてはならない」とは要求されません。ヒラ社員が責任を持つのは自分の仕事だけですから、自分の仕事さえうまく行っていれば会社は傾いていても文句は言われません。それは自分の責任ではないのですから。
では「交通事故の責任をとる」というのはどうでしょう?これも同様に「交通事故の評価を少しでも良くするために何かする」ということです。「交通事故をして良かった」という評価に戻すことは普通はできないでしょう。しかし、良い評価に少しでも近づくために何かすることはできます。それはお金を払うことだったり、謝りに行くことだったりします。このようにして交通事故に対する被害者の悲しみを軽減させる事が交通事故の責任をとるということなのです。
なるほど、すると「○○の責任をとる」=「○○の評価を上げるよう最大限の努力をする」と定義すればかなりすっきりする。
別の例を挙げると、他人の花瓶を割ってしまったとする。その責任をとるというのは、「花瓶を割ったことの評価を上げるよう最大限の努力をする」ことである。というとわかりにくいが、要するに「花瓶を割られたけど、□□してくれたからいい」と相手に思われるような□□をするように努めるということである。□□としては、例えば「こぼれた水を拭いて割った花瓶を片づけ、同じ(ような)花瓶を買って置き換える」という行為が有力である。
ここで注意しないといけないのは、「□□してくれたからいい」かどうか、最大限の努力をしたかどうかを評価するのはあくまで花瓶を割られた人であって、割った自分ではないということである。例えば割れた花瓶が親の形見だったら、片づけて同じような花瓶を買うだけでは「いい」と評価してくれないかもしれない。たとえ安物であっても形見の花瓶は世界に1つしかなかったもので、もう戻すことはできないから、代わりにより高価な花瓶を買うとか別途金を払うとか、あるいは「深く謝る」とか、とにかく相手に「いい」と思ってもらうための努力が普通の花瓶より余計に必要になるかもしれない。
「問題を起こした人が責任をとって辞めるべきかどうか」について考えると、辞めることが「□□してくれたからいい」の□□につながるのかどうかが判断基準である。辞めるというのなら、議員なら議員というポストに対して自分以外の人を置いてその評価を上げることを目的とすべきである。上記の引用の中の「自分より優秀な人を社長に据えて自分は社長を辞める」という例のように。
いつも釈然としないものを感じていたのは、「辞めるという不利益をこうむることにより責任をとる」というトーンが見えるからである。議員の仕事を評価する側(支持者、有権者、党員など)からすれば、「問題を起こして迷惑をかけられたけど、議員を辞職するという不利益をこうむってくれたからいい」という評価には普通はならないだろう。それでは単なる処罰である。「迷惑をかけられたけど、辞めて他の人がもっとちゃんとやってくれたからいい」となるべきである。責任と辞任の関係はそういう目で見ないといけないと思うのだが。そして、新しくそのポジションに就いた人がちゃんとやるかどうかまで監視しないと評価は終わらないのである。