全脳自由帳

より考えるために書く

「なるほどですね」という言い方はありなのか

ある人と話していて、私が何かを説明するたびにその人が「なるほどですねー」と言うのが気になった。そんな言い方を聞いたことがなかったのである。

「なるほどですね」というのは日本語として正しいのだろうか? 調べてみた。

www.nhk.or.jp

少なくとも敬語としてあまり適当でない言い方だとは言えそう。ただしこの記事によると、九州・沖縄地方の人たちには比較的抵抗感が少ないらしい。

私の妻が長崎出身なので聞いてみると、「なるほどですね」は聞いたことがないという。ただ、妻の実家に帰省すると

「だいぶ涼しくなりましたけど、湿気がですねー」

のような言い方をよく耳にする。ニュアンスを伝えるのが難しいのだが、「湿気がですねー」はそこで文章が完結していて、「湿気がまだ多い(ので不快)ですよね」というような意味。

こういう言い方があるので、「なるほどですね」にもあまり抵抗感がないということなのかもしれない。

私個人の違和感はどうやら、感動詞(間投詞)である「なるほど」を名詞(あるいは形容動詞)のように扱って「です(ね)」をつけていること、「ですね」と同意を求めるような言い方になっていることにありそうである。

宝くじは買わない

news.allabout.co.jp

私は金持ちではないが、宝くじを買ったことがない。どうも買う気がしない。

妻は時々買っていて、ごくたまに3000円ぐらい当たったりする。しかしトータルではマイナスである。そりゃ普通そうなるわな。

上の記事にもあるように、宝くじの還元率(元手が戻ってくる率)は40%台で、数あるギャンブルの中でも最低クラスである。

oncasinojapan.info

たとえば競馬は75%ぐらい。ずっと率がいい。ただし税金がかかるらしいが、それでも宝くじよりは上。つまり何の研究もせずにランダムに馬券を買っても、宝くじよりだいぶましということになる。

さらに率のいいのがある。何もしないことである。これなら還元率100%。

もちろんこれは平均での話で、競馬では普通の元手で何億円も当たることはないし、「何もしない」のは決して儲からない。宝くじなら、ものすごく小さい確率ながら、数百円〜数千円の元手で数億円(今年の年末ジャンボでは1等+前後賞2本で10億円)を手にできる可能性がある。

だが、もしも数億円入ったとして、それで今より幸せになれるのだろうか?

高額当選者が不幸になったという話はよく聞く。自分が当たった場合のことを想像しても、ロクなことが思い浮かばない。周囲に隠しておかないといけないだろうし、使い道を考えるのも気が重い。変なものに手を出したりして取り返しのつかないことになるリスクもある。

少額の宝くじ購入で夢を見られる人は買うといいと思うが、私は上記のようなことを考えてしまい、さっぱり夢が見られないのである。

♪宝くじは買わない だって僕は お金なんか いらないんだ…
(「宝くじは買わない」RCサクセション)

年間100冊は間近

今週のお題「今年中にやっておきたいこと」

本を年間100冊読むコツ」というエントリを書いた。今年もあとわずか。1月から今月末までに100冊読めるか、追い込みの時期である。

booklog.jp

これを書いている時点で、今年読了した本(マンガを除く)は97冊。忙しかった10月に4冊しか読めなかったのは痛かったが、それまでの貯金が利いた。あと11日で3冊というのはかなり楽なペース。

昨年に続いて年間100冊は達成できそうになってきたが、気を抜かないでいこう。「途中でやめてしまっている本の棚卸し」もしておきたい。

チェスも将棋も! AlphaZeroのすごさ

10月にAlphaGo Zeroのことを書いたが、先週はさらにすごいニュースが。

nlab.itmedia.co.jp

あんぐり。

AlphaGo Zeroがゼロから人間やそれまでのAIを超えたといっても、現在のところはあくまで囲碁に限った話、と思っていたのだが、まさかこんなに早くチェスや将棋にまで応用されてしまうとは。しかもニューラルネットワークのアーキテクチャ(?)としては同じもので囲碁にもチェスにも将棋にも使えるという。

wired.jp

本当に、これからの展開に目が離せない。

DeepMindの論文はこれ。

Mastering Chess and Shogi by Self-Play with a General Reinforcement Learning Algorithm (PDF)

将棋の方は、自己学習を始めてから2時間でelmo(今年の世界コンピュータ将棋選手権優勝ソフト)を超えたという。1手1分で100戦して90勝8敗2引分け。とんでもなくすごい。人類が何百年もかけ、将棋ソフトもようやく近年になって到達したレベルをやすやすと跳び越えてしまったということになる。

チェスでは世界最強のオープンソースチェスエンジンであるStockfishと100戦して28勝0敗72引分け。引分けの多さが目を引く。それと、28勝のうち25勝が白番(先手)でのもので、黒番(後手)では3勝しかしていない。このレベルになると先後の差は非常に大きいと見える。

そう、「NHKスペシャル 天使か悪魔か 羽生善治 人工知能を探る」で、羽生さんとハサビス氏がチェスで対戦して、確か1勝1敗だった。

チェス以外のターゲットとして、シャンチー(中国将棋)やチャンギ(朝鮮将棋)ではなく日本の将棋が選ばれたのは、案外羽生さんとの交流があったからかもしれないな。持ち駒を使える(だから終盤の変化が多い)というユニークなルールに注目したからかもしれないが。

選択的夫婦別姓制度について(3)

2年前に、現在の「夫婦同姓」は違憲かどうかを争う裁判があった。

www.iza.ne.jp

明治時代から続く、夫婦別姓を認めない民法の規定の違憲性が争われた訴訟で、最高裁大法廷(裁判長・寺田逸郎長官)は「合憲」との初判断を示した。大法廷は「婚姻を直接制約したものではない。制度はわが国に定着し家族の呼称として意義がある」と指摘し、原告側が求めた選択的夫婦別姓導入には「国会で判断されるべきだ」とした。

私は選択的夫婦別姓制度には賛成だが、同姓でなければならない現在の制度が違憲かと問われたら、違憲とまでは言えないと思う。夫の姓に変えることを強制しているわけではないので、別に法律自体が男女差別をしているわけではない(不便を生じさせているかどうかは別として)。合憲という判決は妥当なのではないか。問題は、その先の運用を考えたときにどういう制度にすべきかであって、まさに「国会で判断されるべき」ことだと思うのである。

そういう意味で、別姓制度に変えたい人たちが違憲性の裁判を起こしたのは「作戦ミス」だったのではなかろうか。合憲判決によって(選択的)別姓がダメとされたわけではないのに、そうであるかのような印象を世間に与えてしまうからである。合憲であることは現制度を維持するための必要条件に過ぎないが、十分条件であるかのように思う人はいるだろう。

ただ、前のエントリで書いたような「民法上の氏」「戸籍法上の氏」の関係を知ると、現在の制度は、違憲とは言えないまでもいびつなことになっていると思えてくる。やはり選択的夫婦別姓制度を採るのが一番いいのではないか。

選択的夫婦別姓制度について(2)

サイボウズ社長の青野慶久さんが、選択的夫婦別姓制度に向けての訴訟をすると表明されている。

note.mu

この記事によると、

ここで、「民法上の氏」と「戸籍法上の氏」の2つの氏があることに注目します。通常は一致していますが、一致しないこともあります。例えば、「鈴木」さんが結婚して、民法上も戸籍法上も「佐藤」さんに改姓したけれど、その後、離婚して「民法上の氏」は「鈴木」に戻る。しかし、「戸籍法上の氏」、すなわち「呼称上の氏」は「佐藤」を使い続けている状態です。これは法律上、既に認められています。

今回の訴訟のゴールは、その2つの氏の不一致を、離婚時に加えて結婚時にも適用し、「戸籍法上の氏(=呼称上の氏)」として旧姓を使い続けられるようにしよう、というものです。

そうだったのか。「民法上の氏」「戸籍法上の氏」の2つがあるとは知らなかった。結婚して姓を変えたあと離婚しても旧姓に戻さない人(多くは女性)がいるのは戸籍上どういうしくみなのだろうとかねがね思っていたのだが、「民法上の氏」のみ戻しているということなのか。長年の疑問が解けた。

それなら確かに、結婚時にも「民法上の氏」のみ変更して「戸籍法上の氏」は変えないようにできるようにする、という変更(訴訟での提案)は合理的なように思える。

というわけで、ますます選択的夫婦別姓制度に賛成する気持ちになってきた。

上記の「ゴール」については、以下の記事で詳しく解説されている。これらを読んで、今回の提案がよく理解できた。

ameblo.jp

ameblo.jp

www.huffingtonpost.jp

「民法上の氏」と「戸籍法上の氏(呼称上の氏)」については以下の記事で詳説されている。

choutei.net

選択的夫婦別姓制度について(1)

ここ何年か、選択的夫婦別姓制度についての議論が高まってきている。

www.moj.go.jp

私は賛成である。なぜなら、特に反対する理由がないし、別姓にしたい人にとってはいいことだろうから。

私自身は、結婚する時に妻にこちらの姓に変えてもらった。結婚を決めたあと「名字どうする?」と切り出す時には結構緊張した。私は変えたくなかったが、夫の方に合わせなければならないという正当な理由などない。妻に「変えたくない」と言われたらどうしようと思ったものだった。

そのあと子供たちも含めて長年同じ姓でやってきたから、今さら別姓にする(妻が旧姓に戻す)のはいやだし、「これから結婚する人は全員別姓」という制度にするというなら反対だが、同姓か別姓かを選択できるのなら何ら反対する理由がない。

私が独身だったとしても賛成したと思う。選択的夫婦別姓制度になって、これから結婚するとして、妻になる人に「名字を変えたくない」と言われたら、子供のことなど含めて、よく話して決める。それだけのことである。

反対する人の中には、夫婦同姓という「日本の文化」を守ろう、という人もいる。それがどれほど「日本の文化」なのかはともかく、社会の状況からしてそろそろ手放す時期ではなかろうか。着物から洋服に変えたように。

この問題に関していろんな記事を読んだが、「選択的夫婦別姓、是か非か」については、私の意見は上に書いた以上でも以下でもなく、特に真新しい主張はない。

公明正大でいこう

ちきりんさんのブログには印象的なエントリがたくさんある。これは7年前のもの。

d.hatena.ne.jp

飲み会の支払いの際、たまたまAさんに持ち合わせがなく、同僚のBさんから千円借りました。
すぐ返すつもりが、多忙な日が続き、顔を会わせないまま1ヶ月が過ぎました。
期限も決めていないし催促もされなかったので、「忘れてるかな。今頃言い出すのもどうかな。たいした額じゃないし」と思っているうちに、そのままになってしまいました。
このことで、Aさんが得たのは「千円」、反対にAさんが失ったのが「信用」です。

得るモノ、失うモノ - Chikirinの日記

このエントリの内容にはまったくもって同意。「信用」を得ること、「社会への貯金」をすることはお金を貯めるよりもずっと大事である。

ただ、この例でAさんが失ったものは「信用」だけではない気がする。他にも失ったものがある。名前をつけるなら「尊厳」とでも言うべきもの。

借りた金を返さないというのは人としての道義にもとること。そういうことをするたびに、人としての「尊厳」が失われていくように思う。これはBさんとの関係においてではなく、あくまでAさん個人の中でである。人としてのパワーが落ちていくイメージ。昔の人が「お天道様が見ている」と言ったのは実はこういうことではないか。

誰も見ていなくても、自分の尊厳を保っていよう。いつも公明正大でいこう。

イナイ×イナイ(森博嗣)

イナイ×イナイ PEEKABOO (講談社文庫)

イナイ×イナイ PEEKABOO (講談社文庫)

 

Gシリーズの文庫化された作品はすべて読んだので、Xシリーズを読み始めた。これが第1作。2007年の作品。英題の”Peekaboo”は「いないいないばあ」のこと。

黒髪の佳人、佐竹千鶴は椙田探偵事務所を訪れて、こう切り出した。「私の兄を捜していただきたいのです」。双子の妹、千春とともに都心の広大な旧家に暮らすが、兄の鎮夫は母屋の地下牢に幽閉されているのだという。椙田の助手、小川と真鍋が調査に向かうが、謎は深まるばかり――。Xシリーズ、文庫化始動!

Xシリーズについて作者は以下のように書いている。

これまでのシリーズとはまた少し違って、少々レトロなものを書きたいと思います。ノスタルジィでしょうか。もちろん、新しさあってのレトロですが。Gシリーズの途中に、このシリーズをスタートさせるのも、当初から計画していたことです。

Xシリーズ - 浮遊工作室 (ミステリィ制作部)

旧家が舞台なので、レトロといえばレトロだった。しかし多分、レトロという言葉にはそれ以上の意味が込められているのだろう。なんとなく話の展開がゆっくりだということは言える。

謎の解決はされるのだが、スパッとはいかない。謎解きありのミステリーを読んでいるというより、普通の小説を読んでいる感じに近い。そういうシリーズになるような予感がする。Gシリーズ(まだ全巻読んでいないが)のように、シリーズを通してのしかけが用意してありそう。そこにも注目しながら読むことにしよう。

「へえ……」鷹知は笑った。「案外、古風なんですね、小川さん」
「見た感じよりも、年上なんですよ」真鍋が言った。
「何ですって?」小川は振り返って、彼を睨んだ。「何て言った? よく聞こえなかったけど」
「いえ……、あれ、おかしいな、褒めたつもりだったんですけど」真鍋は目を丸くする。
「褒めてない。全然褒めてない」

わかるわかる。同じことを言うにも、言い方によって受け取られ方は全く違う。この小川令子と真鍋瞬市のコンビにも期待。二人がくっつくことはないと思うが。真鍋はどうということのない奴かと思っていたらそうではなかった。

本は貸し借りしないという、守れない誓い

もう何十年も前から、「他人と本を貸し借りしないようにしよう」と思っている。思っているが守れない。

人に本を貸すと、戻ってこないことがとにかく多い。貸してしばらくして「あの本、どうですか?」「あ、まだ読んでなくて…」これはだいたい長引く。すぐ読み始めてくれても途中で止まったらヤバイ。そのまま時が経っていく。このパターン、何度も経験している。

どこかの時点で「そろそろ返してくれませんか」と言うか、あきらめてしまうことになる。前者は気まずいし、後者もいやなものである。

自分が借りる側の時も、なんとなく読み進めることができずに長い間借りたままになってしまうことがある。人のことは責められない。

これが音楽CDなら、1回聴くのにそれほど時間はかからないし、たとえ聴いていなくてもリッピングしてすぐ返してくれることが多い(LPをカセットテープに録音していた時代はそれなりに手間だった)が、本は裁断してスキャンするというわけにもいかない。

思うに、本というのは人に借りたという事実によっていくぶん読む気が減じてしまうものなのである。自分で買った本(図書館で借りた本も?)に比べて、スタート時点で不利になっている。少なくとも私にとってはそうで、他人に借りた本は「早く返さないと」「読んで感想を言わないと」というプレッシャーがあるし、前の記事に書いたように、ていねいに扱わないといけない。そういう要素が、読もうという気を少し削いでしまう。

人に本を勧める時には、貸すことはせずに、自分で入手してくれることを期待するか、いっそあげてしまうか、どちらかにしたい。そして逆に「貸しましょうか?」と言われたら「いえいえ買います」もしくは「読もうと思ったら買います」と言うようにしたい。

…と思っているのだが、守れない。特に、いいと思った本を貸すという行為は時々やってしまう。

いやいや、本というのは無理やり読んでもらうものではないし、自分が読んでおもしろかったからといって他人も喜んで読んでくれると期待しない方がいいのだ。改めて「他人と本を貸し借りしない」ことをここに誓う!