全脳自由帳

より考えるために書く

バックアップはこまめに、意味のあるところに

卒論・修論の季節。うちの長女も卒業設計に打ち込んでいる。

「数学ガール」の結城浩さんが、論文のバックアップについてツイートされていた。

これで思い出したので、7年前に今は亡きPosterousというブログに書いた話をもう一度書く。

卒論の時の話。私は研究室で初めてワープロで書いた学年だった。その前は全員手書きだったのである。私が使ったのは研究室の共用だったIBM 5560のワープロ機能。

〆切3日前ぐらいの、かなり完成に近づいていた日、徹夜で執筆作業をしたあと下宿で寝ていると、M1の先輩から電話がかかってきた。「すまん…おまえの卒論、消してしもた!」。

5560のワープロは、文書を編集したり閲覧したりして終了する時の「保存しますか?」という問いにNと答えると、修正を反映せずに終了するのではなく、その文書を削除してしまう、というとんでもない仕様だった。先輩は私の卒論を「どれどれ」と見たあと終了する時にこのトラップにはまったらしい。

私はこの危ない仕様を知っていたこともあって、帰る前に必ず全部を2枚のフロッピー (他に外部メディアはない)にそれぞれバックアップするようにしていたので、そこから復旧して事なきを得たのだった。先輩は一時、紙で印刷したものから自分が全部入力し直すことを覚悟していたらしい。

何にしても、バックアップはちゃんととっておきましょう。

最近はDropboxなどのクラウドサービスがあるが、編集するファイルをDropboxに置いているだけではクラウド上に「バックアップした」ことにはならない。本体を編集したり削除したりすると同期されてクラウド上のも変わってしまうからである。バックアップは、編集・削除やPCの故障・破損の影響を受けないところに、別の実体として置いておかなければならない。

長女はMacBook Proを使っているので、下宿と研究室に外付けハードディスクを置き、両方でTime Machineを設定して自動バックアップしている。かつ時々手動でファイルをコピーしているらしい。そうやっておけばまあ大丈夫だろう。

高尾先生のこの連続ツイートはまさに「卒論あるある」であり、とても役に立つ。

togetter.com

数学ガール新刊は「ポアンカレ予想」

 「数学ガール6を執筆中」という結城さんのツイートをずっと読んでいたが、ついにテーマが明かされた。なんとポアンカレ予想とは。全然理解できないながらもトポロジーに興味を持ち続けている私としてはとてもとても楽しみである。

この問題がどのように描かれるのだろうと考えると待ちきれない。ミルカさんはどういうふうに教えてくれるのだろう。「僕」とテトラちゃんやユーリはどのように理解していくのだろう。リサが活躍する場面もあるのだろうか。

ペレルマンの物語も出てくるのかな。ガロアほどではないにしても。

「4月1日」というのは、関孝和の件のこと。

コインチェック社保有の仮想通貨NEMが流出

出川哲朗の出ていたコインチェック社のCMはうるさくて好きではなかったのだが、それどころではないことが起こった。

techwave.jp

仮想通貨NEMの約580億円相当が流出。外部からの侵入者にごっそり抜かれてしまった。どうやらセキュリティに大きな問題があったらしい。

NEM財団のファウンダーLon Wong氏が言うところによるとコインチェック社は「マルチシグ(=マルチ・シグネチャー(署名))を使ったスマートコントラクト技術を使うことをアドバイスしていたにもかかわらず、それを使用しなかったためにハッキングされた可能性がある」ということです。
マルチシグは、異なる署名データを持つアカウントを複数用意し認証を高度化することによって、仮に一つのアカウントがハッキングされても防げるというもの。
また、重要な秘密鍵とよばれるデータ等はインターネットネットにつながっていない機器等で保管する「コールドウォレット」という方法を使うのはもはや常識でしたが、1月26日深夜に行われた記者会見ではコインチェック社は「準備段階で未実装だった」ことを明らかにしています。

マルチシグとコールドウォレット、どちらもやっていなかったというのは責められてもしょうがないだろう。記者会見でも実質それを認めている。

www.huffingtonpost.jp

ソフトウェアシステム(特にネットワークにつながるもの)のセキュリティは大事だと改めて思わされる。

和田社長とともに会見をしていたCOOの大塚雄介氏は「いまさら聞けない ビットコインとブロックチェーン」という本を書いた人で、私はこの本の内容を紹介するcakesの連載をずっと読んでいたので、今回の件には二重に驚かされた。連載の中にはこんな記事もあったのである。

cakes.mu

記事自体は仮想通貨の中でもビットコインに関する話で、NEMのことではないが、セキュリティの基本は同じ。有料会員でないと読めない部分なので引用は控えるが、この記事の中でビットコインの管理について

  • 顧客からの預かり資産の大部分はインターネットに接続されていないところで厳重に管理している
  • 複数の人が承認しないと送れないしくみも取り入れている

のが普通だと解説している。まさにコールドウォレットとマルチシグ。自分のところがNEMに関してはこれらをやっていなくて盗まれたのだから痛恨だろう。

これだけの金額が流出したらユーザには戻ってこないだろうなと思っていたら、補償するという発表が今日あった。

corporate.coincheck.com

総額463億円。これだけの額を出せるのだから、儲かっていたのだろうなと誰でも思う。これからは苦難の道を歩むと思うが。

普通の法定通貨と違って、仮想通貨は取引を追跡できる(人物は特定できないが)。NEM財団から、今回NEMを流出されたアカウントにタグづけをしたという発表があった。

coinpost.jp

NEMはコインチェックのハッキングで不正にネムを取得したアカウントに対してタグをつける機能を実装し、ハッカーのアカウントかどうか見分ける確認方法を取引所と共有するとのことです。

@coincheckjp のハッキング最新情報:NEMが24~48時間以内に自動タグをつけるシステムを開発しました。
この自動化されたシステムは、お金を追跡し、盗まれたお金を受け取った全てのアカウントをタグ付けします。
NEMは、すでに取引所に対し、そのアカウントがタグ付けされているか否かの確認方法を公開しています。

良いニュースは、(このシステムとタグ付けしたアカウントの確認方法を取引所に共有したことで)取引所のハッキングによって盗まれたネムは売却できない事です。
この情報はぜひ共有してください。歴史上最大のハッキングは、NEMによって数時間で解決されたのです。
これがNEMプラットフォーム及び、NEMチームの力です。

流出したNEMをコインチェック社に戻すことはできないが、 使おうとした時には検出できるようになったということになる。犯人たちがそれをかいくぐろうとしてどういう動きをするのかが注目される。

流出時の履歴を解析したという記事も出ている。

www.businessinsider.jp

不正送金先となったアドレス「NC4C6PSUW5CLTDT5SXAGJDQJGZNESKFK5MCN77OG」から別のアドレスへの送金は、コインチェック社が記者会見をしていた最中にもなされていたという。これはどういうことなのだろう。流出に気づいてからでもそこからの送金を防ぐことは不可能だったということなのだろうか。

三国志(マンガ)が読めなくなった

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

三国志 (1) 桃園の誓い (希望コミックス (16))

 

 私の父が吉川英治の「三国志」を愛読書にしていて、読めとよく言われた。しかし長いし時代物は苦手なので読まなかった。

ただし横山光輝のマンガの方は、この1巻を散髪屋で読んだことがあった。劉備玄徳が母のために買った茶をその母に川に投げ捨てられるくだりや、関羽・張飛との「桃園の誓い」の場面は強烈に心に残っている。

そのマンガ「三国志」は1987年に全60巻で完結している。数年前、知人からそれを借りる機会があった。「桃園の誓い」の続きを知りたいと思って読み始めたのだが、2、3冊でやめてしまった。

読めない理由の一つは、戦国武将というものに自分がどうも共感できなくなっていること。大義はわかるが、「結局はみんな人殺しじゃないか」と思ってしまうのである。平和な国(今のところ)に住んでいる人間の典型的な言い分だということはわかりつつ。

そして、人があまりにも簡単に殺されることにウンザリしてしまった。

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こんなシーンがやたら出てくる。ひどい時には「ええい、気に入らぬ」などと言って罪もない人をバッサリ斬ってしまうこともある。その人にはその人の人生があるのに。

これらは、子供の頃には全く平気だったことである。大人になったというより、年をとって死がより身近になったということか。

店内BGM、別人が歌っていることがあるのは原盤権がからんでいるのか?

店内BGM、別人が歌っていることがあるのはなぜ?」というのを書いた。その後いろいろ調べてみると、原盤権の話に行き当たった。

原盤権(げんばんけん)とは、一般に、音楽を録音、編集して完成した音源(いわゆる原盤、マスター音源)に対して発生する権利のこと。著作隣接権の一つである。

日本の著作権法では、「レコード製作者の権利」(第96条~第97条の3)として規定されている。また本権利に関する国際条約として、許諾を得ないレコードの複製からのレコード製作者の保護に関する条約が存在する。

原盤権 - Wikipedia

もう1つ引用。

 例えば、あるCDの曲をそのままお店で流すなど商用で使用したいとします。この場合、「著作権」については、JASRACに申請すれば通常は足りるのですが、これとは別に、その曲の「原盤権」を持っているレコード会社などから許諾を受ける必要があるということになります。

 逆に、自分のお店にバンドを呼んで、ある曲を演奏してもらうとします。この場合には、その曲のCDなどの「音」は使いませんので、原盤権者であるレコード会社などから許諾を受ける必要はなく、「著作権」について、JASRACに申請して許諾を受ければ通常は足りるということになります。

4.1 原盤権の解説 - 弁護士法人クラフトマン

不勉強にしてちゃんと知らなかった。曲(歌詞・メロディ)の著作権とは別に、音源の原盤権というのがある。著作権の方は一般にJASRACを経由して使用許可を得たり使用料を払ったりすればいいが、オリジナル音源(CDなど)を流すには、原盤権を持つ権利者(レコード会社の場合もあればそうでない場合もある)からは別に許可を得なければならない。

店内BGMの場合、原盤権の持ち主から許諾を得ていない(許可してもらえなかったから、もしくは使用料が高いから)ということなのかもしれない。だからオリジナル音源を使わないために別人のボーカルを立てて新しくレコーディングをしているのだ、という仮説が成り立つ。本当にそうなのかどうかはわからないが、今後はこの仮説を持って調べてみるとしよう。

この件、もう何年も疑問に思っていたのだが、2日前にブログに書いたことを契機に考え(調べ)が進んだ。やはりブログに書くことは考えを進めるのに役立つ。

店内BGM、別人が歌っていることがあるのはなぜ?

居酒屋などで流れているBGM。昔は「有線放送」と呼んでいた(USENなどがそれ)が、今はいろいろ種類があるらしいので「店内BGM」としておく。その店内BGMについて、だいぶ前から疑問に思っていることがある。

邦楽の歌の曲で、ボーカルが本人でないことが多いのである。声や歌い方も伴奏のアレンジもオリジナルに似ていて、ちょっと聴いただけでは本物が流れていると思ってしまうが、よく聴くと別人が歌っている。

たとえば中島みゆきの曲が流れていて、何かおかしいなと思ったら、うまく似せてはいるがボーカルは別人だった。さらに注意して聴いているとサザンの曲が流れて、これもよく似ているものの別人が歌っている。桑田佳祐の「よく似たボーカル」は非常に気持ちが悪い。

どうして別人に歌わせるのだろう。わざわざ新しくレコーディングをするより、オリジナルの音源を流す方がはるかに簡単だと思うのだが。

著作権料が高いから? しかしその曲を流すことに変わりはないから、別人でも著作権料は普通に払わないといけないはず。

オリジナルを流すことの許可を得られないから? テレビやラジオでは流れているのに店内BGMはダメなどということがあるのだろうか。どうも理由がわからない。

この件に関して誰かがウェブに書いているだろうと思い、「店内BGM ボーカル 別人」などいろんなキーワードで検索してみたのだが、店内BGMの別人ボーカルに言及している記事は全く見当たらない。私が勘違いをしてるのだろうか。いやいや、間違いなく別人を使った曲がたくさん流れていたのである。継続して調査してみよう。

CAPTCHAは書籍のデジタル化に使われている

ウェブサイトでの認証で、読みにくいアルファベットや数字を読んで入力するCAPTCHA。それが書籍のデジタル化に使われているらしい。

sirabee.com

林修先生の解説は以下。

「書籍のデジタル化を進めるためのもの。かすれたりインクが薄くなって読みづらくなった文字をコンピュターに読ませることができればデジタル化することができる。
人間にしか読めない文字も何人もの『これはこう読む』という記録が残れば、それを覚えて読めるようになる。そうすると古い文書を読み込めるようになる。コンピューターの文字を増やすという壮大な計画に世界中が協力させられている」

なるほど、OCRで読めない部分を人間に教えてもらうのか。

…と思ったが、そもそもCAPTCHAというのはシステム側が正しい読み方を知っていなければ認証にならないのでは?

検索してみると、以下の記事があった。10年以上前の記事。

japan.cnet.com

 reCAPTCHAは、従来のCAPTCHAテストで使われているようなランダムな文字列に加え、もう1語をユーザーに提示する。後者は、コンピュータによるOCRでは認識できなかった未知の単語だ。この仕組みは、ユーザーが従来方式の文字列を正しく解読できるなら、未知の単語のほうも判読できるだろう、という発想に基づいている。von Ahn氏によると、現在reCAPTCHAでは、3人の別の人間がある未知の単語を同じように識別した場合に、正しい読み方だと判断しているという。

そうかそうか、2つの文字列を提示するわけか。1つはシステムが読み方を知っていて認証に使い、もう1つはOCRで読めなかった文字列を見せて、これは認証には使わずに人間に答えを教えてもらう。

後者だけを最初に出してわざと認証NGに見せ、前者を出して本当の認証を行う、というやり方も考えられるが、ユーザのストレスが大きいのでやらない気がする。

これまでCAPTCHAで一度に2つの文字列が出てきた記憶がないが、私の注意力が足りないだけか。結構多くのサイトでこのreCAPTCHAが行われているのだろうか。

Wikipediaにもちゃんと書いてあった。やはり上記のやり方で2つの文字列を表示するらしい。

飲食店をやるのはやはり大変らしい

Bar Bossaの林伸次さんの記事を、cakesでもnoteでも読んでいる。

今日のnoteの記事。

note.mu

日ごろ「飲食店経営はいいですよ。起業したい人は飲食店をやるのはどうでしょう?」と言っていて、「バーのマスターは、「おかわり」をすすめない ー 飲食店経営がいつだってこんなに楽しい理由」という本も出している林さんなので、「やってみようかな」という人を応援するのかと思ったら、「失敗する可能性が高いと思います」という厳しいお答え。少なくとも本気で、かつよく考えてやらないとダメ、というメッセージに見える。

今日はこんな記事も見つけた。

gendai.ismedia.jp

やはり大変である。この記事の中で引用されているのが以下の記事。

gendai.ismedia.jp

飲食店をやろうという人は「プロダクトアウトの罠」「投資回収の罠」「友達の罠」にはまりがちだという。確かにどれもありそう。

さらにその前編の記事がこれ。

gendai.ismedia.jp

読めば読むほど厳しい。まあ、こういうフォローの記事も書かれているが。

gendai.ismedia.jp

私も「カフェをやったら楽しいかな」とか考えたことが全くないわけではないが、会社の仕事をやめても、お店「でも」やってみようかな、という気持ちで飲食店経営に手を出すことだけはやめようと思う。

上記の三戸さんは「60過ぎたら、退職金で会社を買いなさい」と言っているのだが、私の場合、それはもっとやる気がしない。自分に合った、やりたい仕事をやることがまずは大事である。

紅白歌合戦は何を審査しているのか

news.yahoo.co.jp

年末の紅白歌合戦、いろいろと議論はあると思うが、できがよかったという声の割には視聴率はよくなかったらしい。安室奈美恵や桑田佳祐が出てこれならばもはやしょうがないだろう。老若男女が楽しむ歌番組、というコンセプト自体が成り立たなくなっているのはとうにわかっていたこと。あとはいかにして延命するかということになる。

ところで、子供の頃から疑問に思っていることがある。なかなか言葉で説明しにくい疑問なのだが、「紅白歌合戦というのは何を競っているのだろう?」という疑問。

赤組と白組で勝ち負けをつけるのだから、何かを評価しているはず。審査員がいるし、会場にも、最近では視聴者にも投票してもらっている。その際に「何を審査しているのか」について、みんなの認識は一致しているのだろうか?

もちろん、歌のパフォーマンスを審査している。それはわかっている。でももうちょっと掘り下げると、歌のうまさなのか、曲のよさなのか、あるいは衣装なども含めた総合的な印象なのか、はたまた好きなアーティストが出たかどうかなのか。一流のアーティストが出ているだけにかえって、何を審査しろというんだという気持ちになる。

いつも「赤か白かを投票してください」と言うだけで、「こういう基準で審査してください」というNHKからの説明を聞いたことは一度もない。みんななんとなくのフィーリングで投票しているような気がする。それでいいのだという人もたくさんいるだろうが、どうもモヤモヤする。

昔はしつこいぐらい「赤が勝ちますよ」「いいえ白です」と張り合う演出や応援合戦がなされていた。それがなくなったのは時代の流れだと思う。それなのに相変わらず勝ち負けをつけようとし、審査方法でもめたりしているのは不毛な気がする。「歌合戦」にこだわる必要はあるのか。「歌の祭典」ではダメなのだろうか。

年賀状をほぼやめることにしたその後

年賀状を(ほぼ)やめることにしたら楽になった」で書いたように、昨年末に書く年賀状を70数枚から8枚(親族のみ)に減らした。

例年年賀状をくださっていた人たちからは今年も当然何枚も来たのだが、返事は出さずに通した(要するに、何もしなかった)。

罪悪感はあるが、それを除けば快適この上ない。あの作業から解放されたのは大きい。やっぱり(ほぼ)出さないことにしてよかった。

年賀状を出さないことは、最近自分のテーマにしている「承認欲求を手放す」ということの訓練にもなる。「罪悪感」と書いたが、その感情の中には不義理をすることの申し訳なさだけでなく、「どう思われるだろう? 悪く思われたくない!」という気持ちも入っている。それを切り離す練習にもなるのである。

来年(今年末)こそは0にしよう。