全脳自由帳

より考えるために書く

CAPTCHAは書籍のデジタル化に使われている

ウェブサイトでの認証で、読みにくいアルファベットや数字を読んで入力するCAPTCHA。それが書籍のデジタル化に使われているらしい。

sirabee.com

林修先生の解説は以下。

「書籍のデジタル化を進めるためのもの。かすれたりインクが薄くなって読みづらくなった文字をコンピュターに読ませることができればデジタル化することができる。
人間にしか読めない文字も何人もの『これはこう読む』という記録が残れば、それを覚えて読めるようになる。そうすると古い文書を読み込めるようになる。コンピューターの文字を増やすという壮大な計画に世界中が協力させられている」

なるほど、OCRで読めない部分を人間に教えてもらうのか。

…と思ったが、そもそもCAPTCHAというのはシステム側が正しい読み方を知っていなければ認証にならないのでは?

検索してみると、以下の記事があった。10年以上前の記事。

japan.cnet.com

 reCAPTCHAは、従来のCAPTCHAテストで使われているようなランダムな文字列に加え、もう1語をユーザーに提示する。後者は、コンピュータによるOCRでは認識できなかった未知の単語だ。この仕組みは、ユーザーが従来方式の文字列を正しく解読できるなら、未知の単語のほうも判読できるだろう、という発想に基づいている。von Ahn氏によると、現在reCAPTCHAでは、3人の別の人間がある未知の単語を同じように識別した場合に、正しい読み方だと判断しているという。

そうかそうか、2つの文字列を提示するわけか。1つはシステムが読み方を知っていて認証に使い、もう1つはOCRで読めなかった文字列を見せて、これは認証には使わずに人間に答えを教えてもらう。

後者だけを最初に出してわざと認証NGに見せ、前者を出して本当の認証を行う、というやり方も考えられるが、ユーザのストレスが大きいのでやらない気がする。

これまでCAPTCHAで一度に2つの文字列が出てきた記憶がないが、私の注意力が足りないだけか。結構多くのサイトでこのreCAPTCHAが行われているのだろうか。

Wikipediaにもちゃんと書いてあった。やはり上記のやり方で2つの文字列を表示するらしい。

飲食店をやるのはやはり大変らしい

Bar Bossaの林伸次さんの記事を、cakesでもnoteでも読んでいる。

今日のnoteの記事。

note.mu

日ごろ「飲食店経営はいいですよ。起業したい人は飲食店をやるのはどうでしょう?」と言っていて、「バーのマスターは、「おかわり」をすすめない ー 飲食店経営がいつだってこんなに楽しい理由」という本も出している林さんなので、「やってみようかな」という人を応援するのかと思ったら、「失敗する可能性が高いと思います」という厳しいお答え。少なくとも本気で、かつよく考えてやらないとダメ、というメッセージに見える。

今日はこんな記事も見つけた。

gendai.ismedia.jp

やはり大変である。この記事の中で引用されているのが以下の記事。

gendai.ismedia.jp

飲食店をやろうという人は「プロダクトアウトの罠」「投資回収の罠」「友達の罠」にはまりがちだという。確かにどれもありそう。

さらにその前編の記事がこれ。

gendai.ismedia.jp

読めば読むほど厳しい。まあ、こういうフォローの記事も書かれているが。

gendai.ismedia.jp

私も「カフェをやったら楽しいかな」とか考えたことが全くないわけではないが、会社の仕事をやめても、お店「でも」やってみようかな、という気持ちで飲食店経営に手を出すことだけはやめようと思う。

上記の三戸さんは「60過ぎたら、退職金で会社を買いなさい」と言っているのだが、私の場合、それはもっとやる気がしない。自分に合った、やりたい仕事をやることがまずは大事である。

紅白歌合戦は何を審査しているのか

news.yahoo.co.jp

年末の紅白歌合戦、いろいろと議論はあると思うが、できがよかったという声の割には視聴率はよくなかったらしい。安室奈美恵や桑田佳祐が出てこれならばもはやしょうがないだろう。老若男女が楽しむ歌番組、というコンセプト自体が成り立たなくなっているのはとうにわかっていたこと。あとはいかにして延命するかということになる。

ところで、子供の頃から疑問に思っていることがある。なかなか言葉で説明しにくい疑問なのだが、「紅白歌合戦というのは何を競っているのだろう?」という疑問。

赤組と白組で勝ち負けをつけるのだから、何かを評価しているはず。審査員がいるし、会場にも、最近では視聴者にも投票してもらっている。その際に「何を審査しているのか」について、みんなの認識は一致しているのだろうか?

もちろん、歌のパフォーマンスを審査している。それはわかっている。でももうちょっと掘り下げると、歌のうまさなのか、曲のよさなのか、あるいは衣装なども含めた総合的な印象なのか、はたまた好きなアーティストが出たかどうかなのか。一流のアーティストが出ているだけにかえって、何を審査しろというんだという気持ちになる。

いつも「赤か白かを投票してください」と言うだけで、「こういう基準で審査してください」というNHKからの説明を聞いたことは一度もない。みんななんとなくのフィーリングで投票しているような気がする。それでいいのだという人もたくさんいるだろうが、どうもモヤモヤする。

昔はしつこいぐらい「赤が勝ちますよ」「いいえ白です」と張り合う演出や応援合戦がなされていた。それがなくなったのは時代の流れだと思う。それなのに相変わらず勝ち負けをつけようとし、審査方法でもめたりしているのは不毛な気がする。「歌合戦」にこだわる必要はあるのか。「歌の祭典」ではダメなのだろうか。

年賀状をほぼやめることにしたその後

年賀状を(ほぼ)やめることにしたら楽になった」で書いたように、昨年末に書く年賀状を70数枚から8枚(親族のみ)に減らした。

例年年賀状をくださっていた人たちからは今年も当然何枚も来たのだが、返事は出さずに通した(要するに、何もしなかった)。

罪悪感はあるが、それを除けば快適この上ない。あの作業から解放されたのは大きい。やっぱり(ほぼ)出さないことにしてよかった。

年賀状を出さないことは、最近自分のテーマにしている「承認欲求を手放す」ということの訓練にもなる。「罪悪感」と書いたが、その感情の中には不義理をすることの申し訳なさだけでなく、「どう思われるだろう? 悪く思われたくない!」という気持ちも入っている。それを切り離す練習にもなるのである。

来年(今年末)こそは0にしよう。

欅坂46にはまる

先日の紅白歌合戦で、欅坂46のメンバー3人が過呼吸に陥るということがあった。

大事に至らなくてよかった。これを機会に、過呼吸に関する記事を読んでみた。なるほど、二酸化炭素の不足から起こるのか。

headlines.yahoo.co.jp

さらにこれを機会に欅坂46の曲を聴いてみて驚いた。カッコいい曲が結構ある。特に最新曲「風に吹かれても」。


欅坂46 5th 「風に吹かれても」 Best Shot Version.【4K】

曲がいいし、ダンスもうまい。衣装もきまっている。アイドルだと思って十把一からげに見ていてはいけないな。

これだけのことに気づかせてくれたのだから、過呼吸の一件も私にとっては意味があった。

「風に吹かれても」というタイトルもそうだが、欅坂46は(秋元康は、と言うべきか)ボブ・ディランを意識している節がある。欅坂46内ユニットのゆいちゃんず(今泉佑唯、小林由依)には、「ボブディランは返さない」という曲もある。メロディは昭和歌謡風。マンドリンが入っている。

ボブディランは返さない

ボブディランは返さない

  • 欅坂46
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

成人式の基準は年齢か学年か生まれ年か

今日は成人の日。うちの長女も2年前に成人式を迎えたが、女の子は大変だと痛感した。もちろん衣装のことである。もう1回、次女の成人式が控えている。私の成人式の時は、持っていたスーツを着ただけだったが…。

成人式といえば以前から疑問に思っていたのが、「誰がその年の成人式に出席するのか」の基準である。だいたい以下の3つの基準が考えられると思う。

  1. 成人式の時点で20歳の人
    今年(2018年)だと、1997年1月9日〜1998年1月8日生まれ
  2. 成人式に20歳の誕生日を迎える人と同じ学年の人
    今年だと、1997年4月2日〜1998年4月1日生まれ
  3. 成人式のあるその年に20歳の誕生日を迎える人
    今年だと、1998年1月1日〜1998年12月31日生まれ

必ず守らないといけないのは、「全員が成人式の時点で19歳または20歳であること」かな。18歳や21歳で迎えるのはさすがにおかしい。

成人式の主旨からすると1.がよいとも考えられるが、変なところで区切っている感じはあるし、今のように成人式の日付が年によって変わるとおかしなことになる。現実的ではなさそう。

私が成人したころは自治体によってさまざまだったようで、地元では3.だった。私は早生まれなので、同時に成人式を迎えた人の多くは1学年下。同級生にあまり会えなくてつまらなかった。早生まれの同級生の中には、わざわざ1つ前の年の成人式に出た人もいた。

長女の時は2.だった。調べてみると、どうやら今はほぼ2.で統一されているようである。

why-information.com

Wikipediaにも記述がある。

成人式の参加対象となる成人は、前年の「成人の日」の翌日からその年の「成人の日」までに誕生日を迎える人を祝う日となっている。しかし、最近(特にハッピーマンデー制度導入以降)は前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象にする、いわゆる学齢方式が定着するようになっている。ただし、 誕生日を迎えていない新成人は未成年者飲酒禁止法・未成年者喫煙禁止法によって酒を飲んだり、喫煙をしたりすることは禁止。

年齢方式の場合、誕生日の遅い早生まれの人が他の参加者が殆ど見ず知らずの人になってしまったり、ハッピーマンデー制度によりその年の成人の日は19歳で翌年の成人の日は21歳というケースがある(1987年1月9日 ‐ 13日・1992年1月10日 ‐ 13日生まれの場合)ためとも言われている。

成人式 - Wikipedia

現実的な解だと思う。3.だとほとんどの人が19歳で成人式を迎えることになってしまうが、2.なら多くは20歳になっているし、同級生と会うこともできる。

成人式について書いておきたいことがあと2点。

  • テレビで新成人に「今日からお酒が飲めますね!」と言っているのを何度か見たことがあるが、酒を飲んでいいのは20歳の誕生日から。上記のWikipediaにもあるが、成人式の時点でまだ19歳ならダメだし、成人式の前でも20歳になればOKである。法律で決まっていることなので、「今日から」などといい加減なことを言ってはいけない。
  • 花魁の衣装が最近流行しているという。さすがにやめた方がいいと思う。もちろん本人の自由ではあるが、花魁は売春婦だということを知っててやっているのだろうか。

Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 50周年の6枚組を聴く・観る

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)

 

年末に書いた、このアルバムのスーパーデラックスエディションを聴いて・観ている。

アルバムのステレオリミックス盤は、音がこれまでとはまったく違う。2009年のリマスター盤はその名の通りマスタリングをし直したもので、それはそれで音が変わっていたが、今回はミキシングからやり直した(担当はジョージ・マーティンの息子のジャイルズ・マーティン)だけのことはある。

好みかどうかは別として、今の音楽っぽいサウンドになっているし、これまでの盤では気づかなかった音も聴こえてくる。ボーカルが真ん中から聞こえてくるのは、これまでのステレオバージョンより聴きやすい。

www.udiscovermusic.jp

これからは、気分によっていろんなバージョンを聴ける。なんとも贅沢なこと。

ブルーレイとDVDのディスクには、ドキュメンタリー”The Making of Sgt. Pepper”が入っている。この映像はVHSに録画したものを何度も観ていたのだが、クリアな映像で改めて楽しむことができた。何度観ても、世紀のアルバムの誕生過程にワクワクする。

最初にこれを観た時も「ジョンも語ってくれたらなあ」と思ったものだったが、それからジョージ・ハリスンとジョージ・マーティンも亡くなってしまった。ポールとリンゴにはできるだけ長く元気で活躍してほしい。

断定したくない症候群(3) じゃないですけど

断定を避けようとする言い方の3つ目はこういうの。 

あの、お母さんと娘さんが抱き合って泣いているのを見て、僕も、もらい泣きじゃないですけど、涙が出てきたんですよ。

それはまさしく「もらい泣き」である。「もらい泣きじゃない」ことはない。

会議にて…

このへんで、ここまでの総括じゃないですけど、いったんまとめておきましょうか。

それは「総括」でまったく正しい。「じゃない」ことはない。

こういうふうに、「○○です」「○○します」と言う代わりに「○○じゃないですけど」といったん言っておく、という伝え方をする人が、ここ数年で私のまわりに急に増えた。

これも、断定したくないという心理が働いているのだと思う。断定しないために「〜じゃない」という否定表現まで使ってしまう。「断定したくない症候群」、ここに極まれり。

laurier.press

この記事では、「〜じゃないですけど」を以下のように分析している。

それでもとっさに言葉が浮かばず、「ぼん!」とまず、強く分かりやすい言葉をぶつけてしまう。で、すぐに「それではないのだが」と否定。「それに類したものを察してください」という話し手の意図が現れます。

「嘘でもいいのでとりあえず言ってしまって、あとからフォロー」という作戦、相手の気持ちをがっとつかむためには有効手段ですが、乱用・悪用は避けたいもの。

今やもう、そんな「作戦」を繰り出している感じではない。「○○です」と言えるところをシンプルに「○○じゃないですけど」と言い換えている。ただ断定したくないだけなのだと推測している。それほどまでにはっきり言いたくないものだろうか。

断定したくない症候群(2) かな形

最近増えてきた、断定を避けようとする言い方の2つ目は、何にでも「かな」をつけようとするスタイル。

テレビの対談番組を観ていたら、「毎日やっていることはありますか」と聞かれた人が

あまりないけど、朝、祈ってるかな。家に仏壇みたいなのがあるんだけど、それに向かって祈ってるかなー

と(細部はうろ覚えだが)言っていた。

この「祈ってるかな」はもちろん、自分が朝祈っているかどうか自信がないのではないだろう。「祈ってる」と言うとちょっと偉そうになると思っているのか、とにかく断定したくないのだと思う。

以前受けた研修で、講師の先生が「〜ということを、覚えておいてほしいかなと思います」というような「かな」を連発していたことがあった。これも無意識に言っているのだろう。「覚えておいてください」でいいと思うのだが。

何かの感想を聞かれた時に「〜と思ったかな」と言う人もいる。「思った」のは自分の心の中のことなので、それくらいは断定してほしい。

自分に関する事実や自分の思っていることにまで「かな」をつけるのは、物事をはっきり言うことを回避しようとしすぎではなかろうか。使っている人たちはもう習慣になってしまっているから、「断定したくなくてそういう言い方をしている」という意識もないのかもしれないが。

断定したくない症候群(1) 半疑問形

最近よく使われる言葉遣いの傾向として、「断定したくない」という(無意識の)意図を感じることがよくある。相手に気を遣っているのか自分が否定されたくないのか、たいてい両方なのだと思うが、できるだけ断定せずにおこうという気持ちを感じることが多いのである。

その代表格とも言えるのが「半疑問形」。

今年は、ふるさと納税? しようかなと思ってるんですよ。返礼品? もらえるのいいかなと思って。肉とかうなぎとか? でも、私の給料でもらえる限度? いくらぐらいいけるかわからなくて、友達に聞いたら、ウェブサイトで? 見ればわかると言われて。

どうも自然な感じで再現できないのだが、こんなしゃべり方。

この言い方の歴史は古く、今やすっかり定着してしまった。もう誰も(私のようなこだわりの強い奴以外には)気にしていないようである。

極端なケースになると、

A: 「娘さん、何年生ですか?」
B: 「中1?

のように、「こっちが聞いとるんじゃ! 自分の娘の学年に自信ないんか!」とツッコミを入れたくなるような答え方をする人がいる。こうなると、気を遣っているのでも否定されたくないのでもなさそうである。

疑問形を入れることによって、ともかく相手に確認しながら、共感してもらいながら話を進められる。そういう気持ちが無意識に働いてこういう言い方をするのだと思っている。

この半疑問形、すごいと思うのは、年配の人にまで広がっていることである。テレビを観ていると、70代や80代の人でも結構この言い方をしている。おそるべし。

検索してみると、1998年のNHKのコラムで「半クエスチョン」として取り上げられている。

www.nhk.or.jp

このコラムでは、

次のようにすれば、「半クエスチョン」を使わなくても済みます。

1. 質問すべきところでは、疑問形を用いた文できちんと質問し、それから本題に入ること。

2. 相手に伝わっているかどうか不安になる原因の1つには、自分の使っている単語・言い回しが難しすぎるのではないか、と気にしていることがあげられます。確実に相手に伝わると自信を持てるくらいの簡潔な表現を目指しましょう。

とあるのだが、もう誰も、使わなくてすむようにしようとは思っていない。そんな問題ではないというところまで定着してしまっている。時代の流れを感じる。