全脳自由帳

より考えるために書く

欅坂46にはまる

先日の紅白歌合戦で、欅坂46のメンバー3人が過呼吸に陥るということがあった。

大事に至らなくてよかった。これを機会に、過呼吸に関する記事を読んでみた。なるほど、二酸化炭素の不足から起こるのか。

headlines.yahoo.co.jp

さらにこれを機会に欅坂46の曲を聴いてみて驚いた。カッコいい曲が結構ある。特に最新曲「風に吹かれても」。


欅坂46 5th 「風に吹かれても」 Best Shot Version.【4K】

曲がいいし、ダンスもうまい。衣装もきまっている。アイドルだと思って十把一からげに見ていてはいけないな。

これだけのことに気づかせてくれたのだから、過呼吸の一件も私にとっては意味があった。

「風に吹かれても」というタイトルもそうだが、欅坂46は(秋元康は、と言うべきか)ボブ・ディランを意識している節がある。欅坂46内ユニットのゆいちゃんず(今泉佑唯、小林由依)には、「ボブディランは返さない」という曲もある。メロディは昭和歌謡風。マンドリンが入っている。

ボブディランは返さない

ボブディランは返さない

  • 欅坂46
  • J-Pop
  • ¥250
  • provided courtesy of iTunes

成人式の基準は年齢か学年か生まれ年か

今日は成人の日。うちの長女も2年前に成人式を迎えたが、女の子は大変だと痛感した。もちろん衣装のことである。もう1回、次女の成人式が控えている。私の成人式の時は、持っていたスーツを着ただけだったが…。

成人式といえば以前から疑問に思っていたのが、「誰がその年の成人式に出席するのか」の基準である。だいたい以下の3つの基準が考えられると思う。

  1. 成人式の時点で20歳の人
    今年(2018年)だと、1997年1月9日〜1998年1月8日生まれ
  2. 成人式に20歳の誕生日を迎える人と同じ学年の人
    今年だと、1997年4月2日〜1998年4月1日生まれ
  3. 成人式のあるその年に20歳の誕生日を迎える人
    今年だと、1998年1月1日〜1998年12月31日生まれ

必ず守らないといけないのは、「全員が成人式の時点で19歳または20歳であること」かな。18歳や21歳で迎えるのはさすがにおかしい。

成人式の主旨からすると1.がよいとも考えられるが、変なところで区切っている感じはあるし、今のように成人式の日付が年によって変わるとおかしなことになる。現実的ではなさそう。

私が成人したころは自治体によってさまざまだったようで、地元では3.だった。私は早生まれなので、同時に成人式を迎えた人の多くは1学年下。同級生にあまり会えなくてつまらなかった。早生まれの同級生の中には、わざわざ1つ前の年の成人式に出た人もいた。

長女の時は2.だった。調べてみると、どうやら今はほぼ2.で統一されているようである。

why-information.com

Wikipediaにも記述がある。

成人式の参加対象となる成人は、前年の「成人の日」の翌日からその年の「成人の日」までに誕生日を迎える人を祝う日となっている。しかし、最近(特にハッピーマンデー制度導入以降)は前年の4月2日からその年の4月1日に成人する人を式典参加の対象にする、いわゆる学齢方式が定着するようになっている。ただし、 誕生日を迎えていない新成人は未成年者飲酒禁止法・未成年者喫煙禁止法によって酒を飲んだり、喫煙をしたりすることは禁止。

年齢方式の場合、誕生日の遅い早生まれの人が他の参加者が殆ど見ず知らずの人になってしまったり、ハッピーマンデー制度によりその年の成人の日は19歳で翌年の成人の日は21歳というケースがある(1987年1月9日 ‐ 13日・1992年1月10日 ‐ 13日生まれの場合)ためとも言われている。

成人式 - Wikipedia

現実的な解だと思う。3.だとほとんどの人が19歳で成人式を迎えることになってしまうが、2.なら多くは20歳になっているし、同級生と会うこともできる。

成人式について書いておきたいことがあと2点。

  • テレビで新成人に「今日からお酒が飲めますね!」と言っているのを何度か見たことがあるが、酒を飲んでいいのは20歳の誕生日から。上記のWikipediaにもあるが、成人式の時点でまだ19歳ならダメだし、成人式の前でも20歳になればOKである。法律で決まっていることなので、「今日から」などといい加減なことを言ってはいけない。
  • 花魁の衣装が最近流行しているという。さすがにやめた方がいいと思う。もちろん本人の自由ではあるが、花魁は売春婦だということを知っててやっているのだろうか。

Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band 50周年の6枚組を聴く・観る

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)

サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(スーパー・デラックス・エディション)(4CD+DVD+BD)

 

年末に書いた、このアルバムのスーパーデラックスエディションを聴いて・観ている。

アルバムのステレオリミックス盤は、音がこれまでとはまったく違う。2009年のリマスター盤はその名の通りマスタリングをし直したもので、それはそれで音が変わっていたが、今回はミキシングからやり直した(担当はジョージ・マーティンの息子のジャイルズ・マーティン)だけのことはある。

好みかどうかは別として、今の音楽っぽいサウンドになっているし、これまでの盤では気づかなかった音も聴こえてくる。ボーカルが真ん中から聞こえてくるのは、これまでのステレオバージョンより聴きやすい。

www.udiscovermusic.jp

これからは、気分によっていろんなバージョンを聴ける。なんとも贅沢なこと。

ブルーレイとDVDのディスクには、ドキュメンタリー”The Making of Sgt. Pepper”が入っている。この映像はVHSに録画したものを何度も観ていたのだが、クリアな映像で改めて楽しむことができた。何度観ても、世紀のアルバムの誕生過程にワクワクする。

最初にこれを観た時も「ジョンも語ってくれたらなあ」と思ったものだったが、それからジョージ・ハリスンとジョージ・マーティンも亡くなってしまった。ポールとリンゴにはできるだけ長く元気で活躍してほしい。

断定したくない症候群(3) じゃないですけど

断定を避けようとする言い方の3つ目はこういうの。 

あの、お母さんと娘さんが抱き合って泣いているのを見て、僕も、もらい泣きじゃないですけど、涙が出てきたんですよ。

それはまさしく「もらい泣き」である。「もらい泣きじゃない」ことはない。

会議にて…

このへんで、ここまでの総括じゃないですけど、いったんまとめておきましょうか。

それは「総括」でまったく正しい。「じゃない」ことはない。

こういうふうに、「○○です」「○○します」と言う代わりに「○○じゃないですけど」といったん言っておく、という伝え方をする人が、ここ数年で私のまわりに急に増えた。

これも、断定したくないという心理が働いているのだと思う。断定しないために「〜じゃない」という否定表現まで使ってしまう。「断定したくない症候群」、ここに極まれり。

laurier.press

この記事では、「〜じゃないですけど」を以下のように分析している。

それでもとっさに言葉が浮かばず、「ぼん!」とまず、強く分かりやすい言葉をぶつけてしまう。で、すぐに「それではないのだが」と否定。「それに類したものを察してください」という話し手の意図が現れます。

「嘘でもいいのでとりあえず言ってしまって、あとからフォロー」という作戦、相手の気持ちをがっとつかむためには有効手段ですが、乱用・悪用は避けたいもの。

今やもう、そんな「作戦」を繰り出している感じではない。「○○です」と言えるところをシンプルに「○○じゃないですけど」と言い換えている。ただ断定したくないだけなのだと推測している。それほどまでにはっきり言いたくないものだろうか。

断定したくない症候群(2) かな形

最近増えてきた、断定を避けようとする言い方の2つ目は、何にでも「かな」をつけようとするスタイル。

テレビの対談番組を観ていたら、「毎日やっていることはありますか」と聞かれた人が

あまりないけど、朝、祈ってるかな。家に仏壇みたいなのがあるんだけど、それに向かって祈ってるかなー

と(細部はうろ覚えだが)言っていた。

この「祈ってるかな」はもちろん、自分が朝祈っているかどうか自信がないのではないだろう。「祈ってる」と言うとちょっと偉そうになると思っているのか、とにかく断定したくないのだと思う。

以前受けた研修で、講師の先生が「〜ということを、覚えておいてほしいかなと思います」というような「かな」を連発していたことがあった。これも無意識に言っているのだろう。「覚えておいてください」でいいと思うのだが。

何かの感想を聞かれた時に「〜と思ったかな」と言う人もいる。「思った」のは自分の心の中のことなので、それくらいは断定してほしい。

自分に関する事実や自分の思っていることにまで「かな」をつけるのは、物事をはっきり言うことを回避しようとしすぎではなかろうか。使っている人たちはもう習慣になってしまっているから、「断定したくなくてそういう言い方をしている」という意識もないのかもしれないが。

断定したくない症候群(1) 半疑問形

最近よく使われる言葉遣いの傾向として、「断定したくない」という(無意識の)意図を感じることがよくある。相手に気を遣っているのか自分が否定されたくないのか、たいてい両方なのだと思うが、できるだけ断定せずにおこうという気持ちを感じることが多いのである。

その代表格とも言えるのが「半疑問形」。

今年は、ふるさと納税? しようかなと思ってるんですよ。返礼品? もらえるのいいかなと思って。肉とかうなぎとか? でも、私の給料でもらえる限度? いくらぐらいいけるかわからなくて、友達に聞いたら、ウェブサイトで? 見ればわかると言われて。

どうも自然な感じで再現できないのだが、こんなしゃべり方。

この言い方の歴史は古く、今やすっかり定着してしまった。もう誰も(私のようなこだわりの強い奴以外には)気にしていないようである。

極端なケースになると、

A: 「娘さん、何年生ですか?」
B: 「中1?

のように、「こっちが聞いとるんじゃ! 自分の娘の学年に自信ないんか!」とツッコミを入れたくなるような答え方をする人がいる。こうなると、気を遣っているのでも否定されたくないのでもなさそうである。

疑問形を入れることによって、ともかく相手に確認しながら、共感してもらいながら話を進められる。そういう気持ちが無意識に働いてこういう言い方をするのだと思っている。

この半疑問形、すごいと思うのは、年配の人にまで広がっていることである。テレビを観ていると、70代や80代の人でも結構この言い方をしている。おそるべし。

検索してみると、1998年のNHKのコラムで「半クエスチョン」として取り上げられている。

www.nhk.or.jp

このコラムでは、

次のようにすれば、「半クエスチョン」を使わなくても済みます。

1. 質問すべきところでは、疑問形を用いた文できちんと質問し、それから本題に入ること。

2. 相手に伝わっているかどうか不安になる原因の1つには、自分の使っている単語・言い回しが難しすぎるのではないか、と気にしていることがあげられます。確実に相手に伝わると自信を持てるくらいの簡潔な表現を目指しましょう。

とあるのだが、もう誰も、使わなくてすむようにしようとは思っていない。そんな問題ではないというところまで定着してしまっている。時代の流れを感じる。

寝床の中ではマジメなことを考えない

新年にふさわしい話題ではないが、元日にゴロゴロしていたら思い出した。

人は四六時中何かを考えているもの。歩いていても電車に乗っていても寝転んでいても風呂に入っていても、気がついたら一つのことについて考えごとにふけっていたということはよくある。

自分の考えごとに関して見つけた法則が1つある。寝床の中で考えごとをするとネガティブな方向に行ってしまう、というものである。そういう人は多くないのか、まわりの人にはあまり共感してもらえないが。

夜、布団に入って眠りに入る前、あるいは夜中や朝に目が覚めた時、または休日に布団の中でゴロゴロしている時、マジメなことを考えると、きまってネガティブな方向に思考が行って悩んでしまう。どうもダメな気がしたり、課題が解決できそうにないと思ったり。あとで思い出した時に「大したことじゃないのに、なんであんなに悩んでたのか?」と思うことがある。

だから、寝床の中では意識して楽しいことしか考えないことにしている。仕事のことや、それ以外でも目下何とかしないといけないことからは考えをそらして、できるだけ能天気なトピックに意識を向ける。考える方向をコントロールするのは結構難しいことではあるが。

寝床の中での考えごとについては、いくつかの記事を見つけた。

kira-to.com

どうやら、夜中は思考能力が低下しているから、ということらしい。私の感覚ではそれに加えて、外界からの刺激の少ない、心理的に閉鎖的な状況で考えるためにどうしてもマイナス要因を拡大してしまう、ということもある気がする。

マジメなことは寝床では考えない、そしてそういうことはなるべく人と話す、ということを心がけよう。

環境問題にどう関わるか

私は環境問題に対しては、世界中で起こっていることを聞けば聞くほど「もう何をやってもどうせダメ」という無力感を覚えるばかりで、力が湧いてこなかった。「地球環境に対して自分のやれることをやろう」という言葉を聞くたび、「それではダメだろう」という気持ちになるのである。

最近、伊勢谷友介の本を読んだ。

社会彫刻

社会彫刻

 

彼は、俳優・映画監督として活躍しているだけでなく、リバース・プロジェクト(Rebirth Project)という会社を立ち上げて、様々な活動を行っている。オーガニック・コットン製のTシャツや生地再利用デニム(私には「ジーンズ」「ジーパン」という言い方の方がスッキリくるのだが…)の製作、被災地復興や地域活性化の支援、現代版松下村塾など。

いろんなインタビューで、彼は「人類が地球に生き残るためのことをする」ことが自分の生きる意味だと言っている。彼のすべての仕事はそのためと位置づけられているようだ。俳優や映画監督の仕事もそこにつながっているのだという。

logmi.jp

オーガニック・コットン、生地再利用。このあたりは環境問題の範疇に入る。

この本や伊勢谷氏のインタビューに触発されて(それだけではなく、いろんな人と話した結果でもあるのだが)、私も「自分の生きる意味につながっていると実感できることを定めて、それとの関係で環境問題なり何なりを位置づけてみてはどうか?」と考えるようになった。

私の生きる意味はと考えると、人の(大上段に振りかぶると、人類の)リテラシーを上げる、ということにあると感じている。そこにつながることをやっていけばいいのではないか。たとえば科学的に考えることを伝える、人や集団の力を引き出す、などなど。自分がそれをやることが地球や人類にとってどれだけのインパクトがあるかはおいといて、まずはそういう行動を起こしてみるのが先かなという気に(やっと)なっている。

今年最後の更新。来年は、自分が活かされていると今年よりも実感できる年にしたい。

自転車の「ケンケン乗り」はできなくてもいい

「ケンケン乗り」という呼び方があることを知った。自転車を発進させる時のあのやり方にである。

あのやり方。文章では説明しづらいが、まずハンドルを持った状態で自転車の左側に立ち、左足を左ペダルに乗せる。その状態から、右足で地面を蹴って自転車を前に走らせ、何歩か右足でケンケンしたらサドルにまたがる…という発進法。見たことがないという人はまずいないだろう。

私はこのケンケン乗りができない。やったことがないからである。発進する時は、まずサドルにまたがり、片方のペダル(たいてい右)を踏んで自転車を動かす。この方法で困ったことはないので、ケンケン乗りの必要性を感じたことはなかった。しかし子供のころ、まわりの友達はよくやっていたので、若干の劣等感はあった。

今ではケンケン乗りを「おばちゃん乗り」と呼ぶ人もいて、比較的年配の女性がやるもの、と思われているらしい。昔は老若男女問わずかなり多くの人がやっていたと思うが、確かにあまり見かけなくなったように感じる。

portal.nifty.com

関西でもあまり見ないように思うのである。

そして、ケンケン乗りはどうもあまり勧められない発進法であるらしい。

wakuwaku-jitensha.com

この記事によると、安定性がよくないのでやめた方がいいとのこと。そして、正しい発進のしかたを以下のように解説している。

まずは乗る前に、後ろを確認して下さい。
そして、安全を確保したところで、サドルには腰掛けず、フレームを跨いで片足をペダルに載せます。

そうしたらペダルを踏み込みつつ、空いている足で地面を蹴って下さい。
すると、一気にスピードが出るのですぐにバランスが取れます。

肘と膝を伸ばすと、サドルにすんなりと座れます。

サドルに腰掛けずに、前のフレームをまたいだ状態でペダルを踏んで発進するのか。やったことがなかった。確かにこれが安全にできるのなら、サドルの高い自転車でも乗りやすそうである。

そして、電動自転車ではケンケン乗りは特に危ないらしい。

電動自転車には何度か乗ったことがあるので、これは容易に想像がつく。ケンケン乗りの時にペダルが電気の力でグイーンと回ったらとても危ない。

結論。自転車のケンケン乗りをしている人は、ちゃんとした発進法に変えることをお勧めします。特に電動自転車ではケンケン乗りは絶対にやめましょう。そして私がケンケン乗りを習得することはないでしょう。

何十年かぶりに「ローマの休日」を観た

TOHO系の映画館で「午前十時の映画祭8」というのをやっている。昔の名画を朝10時から上映するという企画。古い映画だからか、料金は割と安い。

その中で今年「裏窓」「ショーシャンクの空に」「ローマの休日」を妻と観に行った。「ショーシャンク」も非常によかったのだが、やはり「ローマの休日」。今年一番よかった映画を挙げるとするならこれである。

asa10.eiga.com

小学生の時にテレビの映画劇場で観たきりだった。その時にもいい映画だと思ったが、当然それから自分の感性も考え方も変わっている。それにこの名画を映画館で観たことがないのは残念なことだと思っていたのである。

まったくもって圧倒された。ストーリーだけでなく、細かいところにも工夫がこらされていて、飽きさせない。笑いどころもかなりある。こんなに行き届いた映画だと思わなかった。終わった時の妻の第一声も「おもしろかったー」。

オードリー・ヘップバーンは決して好みのタイプの女優ではないのだが、この映画ではただただ美しい。最後の記者会見のシーンには、筋がわかっていても引き込まれる。

いい映画は、何十年経っても色褪せない。やっぱり映画館に観に行ってよかった。